海外組のリアル 「覚悟」(2) カッサーノの称賛と最後に待ち受けた地獄
横浜マリノスユースに所属していた中居時夫さんは、高校卒業を待たずしてイタリアへと渡った。当初、プロ入りの道が開けたにみえたが、強化担当者が替わったために強豪のトリノ入りの話は流れてしまった。だが、そんなつまずきも、中居さんの熱意を冷ますことはできなかった。
第1回「阿部勇樹が認めた才能」は、こちらから。
まとわりつく「外国人選手枠」
1999年、「すべてを捨てて」日本を後にした中居さんはトリノ入り破談にもめげず、当時セリエBを戦っていたフェルマーナのプリマヴェーラ(ユースに相当)の夏合宿に参加。当時の飛ぶ鳥を落とす勢いそのままに、すぐに入団への一発回答を勝ち取った。トップチームに呼ばれ、2部リーグでプレーする姿を思い描く日々が始まった。
だが、やはりカルチョの世界は移り変わりが激しかった。トップチームがシーズン初の公式戦となるカップ戦で連敗したことで、事情が突然変わった。リーグ戦開幕直前、本来は中居さんが入るはずだった外国人選手枠2つのうち1枠を使って、新たにクロアチア人選手を迎えることが決まったのだ。この「外国人選手枠」が、長く中居さんを苦しめることになる。
他クラブを探すことにすると、またも受け入れ先は見つかり、セリエC2(3部相当)のポンテデーラに所属することが決まった。ただし、トップチームでは公式戦に出られない。セリエC2では当時、外国人選手枠そのものが存在しなかったからだ。そこで、クラブのプリマヴェーラ所属として選手登録しつつ、練習は3部を戦うトップチームとともに行い、ポンテデーラと協力関係にあるポンサッコというクラブに貸し出される形で5部リーグの試合に出場する環境が整えられた。
日本にいた頃と同じく、トップチームでの試合出場はならなかったが、「それが当時プレーできる唯一の環境だったし、3部を戦うトップチームで練習できたことは宝ですね。当時は18歳で、トップの選手とは体が全然違うので、ボールを持ってもすぐにつぶされちゃうんですよ。それを1年間学べたのは、すごく良かったと思います」。トリノ入りもセリエBでのプレーも逃したが、まだポジティブにとらえられる自分がいた。
スタート地点は下位リーグとなったが、中居さんはイタリアで充実した時間を過ごしていた。
「目標は、間違いなくセリエAでした。自信はありましたが、常にすごい壁にぶつかってもいましたね。まさに実力の世界です。日本にいる頃は、近い年代でうまい選手と言えば小野伸二選手くらいしか目に入りませんでしたが、イタリアに行った瞬間にうまい人がめちゃくちゃいっぱいいるんですよ。『なんだこれ!?』と思ったけど、それがすごく楽しくて。学び取ろうとしていたし、全然つらくありませんでした」
学んだ大きなものの一つが、プロ意識だという。
「日本では、プロになるためにサッカーだけ頑張っていればいい。僕もただのサッカー小僧でした。監督など現場にいる人の言うことを聞いて、後はひたすらグラウンドで頑張るのみ、みたいな。真面目なサッカー小僧というんですかね。でも、海外に行ったら、それじゃ通用しないんですよね」
そのために必要になるのが、ピッチ内外での対応力だという。監督とのコミュニケーションも、一方通行では自分の身にならない。うまく自分を起用したいという思いにさせることも、技術の一つに数えられる。
チームメイト相手でも、たとえ若かろうと、シビアな対応が求められる。
「ポジションがかぶってレギュラー争いしているチームメイトとの関係性もそうですね。わざと仲良くしているふりをして、奪い取るんです。僕がそれをやられました。僕がレギュラーだった時、普段はすごく仲が良いチームメイトに練習で思い切り削られて捻挫してしまい、その選手にレギュラーの座を奪われたことがありました。毎日の練習が試合のような緊張感でしたね。『そこまでするか』と思うことも、多々ありました」
プロ契約直後の残酷過ぎる皮肉
そうした日々は、間違いなく中居さんの血肉となっていた。その証拠となる一つのエピソードが、1999-2000シーズンでの、ある出会いだった。
中居さんはポンテデーラの一員として、19歳以下の選手による国内最大の大会であるトルネオ・ディ・ヴィアレッジョに出場した。毎年2月に行われ、国内外から多くのスカウトが集まり、選手の見本市となる大会だ。
中居さんらは、見事にグループステージを突破した。決勝トーナメント1回戦では、当時トップチームがセリエAを戦っているバーリと対戦した。その中心選手には、のちにイタリア代表で背番号10を背負うアントニオ・カッサーノがいた。
「すごく良い試合をして注目され、僕も点を決めました。ガゼッタ・デッロ・スポルトという全国紙に載ったし、試合後にはカッサーノが直々に僕のところに来て、『すごく良いプレーだったね』といった言葉をかけてくれました」
中田英寿氏がローマの一員としてスクデットを獲得した2000-01シーズンには、中居さんも同じくリーグ優勝を経験している。プロ・ヴァストというクラブの一員として、しかも最終節で自らゴールを決めて、セリエD(4部相当)への昇格を決めているのだ。2人の日本人のリーグ優勝を重ね合わせるメディアもあった。
こうしてイタリアで迎えた4年目、運命の扉が開いた。その先には、「約束の地」へ続く道が伸びていた。
2002年、当時セリエC2に所属するプロ・セストの練習に参加した。中居さんをイタリアに引きつけるきっかけとなったACミランの本拠地ミラノと同じ地域にあるクラブで、チームスタッフにもACミランの元関係者が多かった。
「レギュラーではないものの、(マルコ・)ファン・バステンとも一緒にプレーしていた元イタリア代表の(ステファノ・)エラーニオという、すごい人がコーチとして在籍していました。チームメイトにも、ミランで200試合以上に出場したフィリッポ・ガッリがいました。そのチームにすごく入りたくてしょうがなくて、頑張って練習参加していたら取ってくれたんですよ。それまでアマチュア契約しかしたことがありませんでしたが、イタリアに来て初めてプロとして2年契約を結びました」
ついにつかんだプロ契約。しかも、憧れのミランとのつながりもある。幸せの絶頂にあったと言ってもいい。
それだけに、いきなり奈落へと突き落とされた心中は、察するに余りある。
プロとして初めて迎えるシーズン開幕を、3週間後に控えた朝のことだった。
いつものように、練習前にカフェでパンとカプチーノを飲みながら、ガゼッタ・デッロ・スポルトを読んでいた。1面をめくった瞬間に飛び込んできた見出しの衝撃を、中居さんは今も忘れることができない。
「セリエCの外国人選手枠撤廃」。ようやく手にした居場所を突然、理不尽な形ではく奪されたのだ。
「就任したばかりの首相の『国内の若手を育てるべきだ』という一存で、1年前に設けられたばかりのセリエCの外国人枠が撤廃されてしまったんです。右寄りの政治家だったので、国民へのアピールという意味もあったのかもしれません。とにかく、まさか、という思いでした。この記事を見た瞬間から、新聞を持ったままの体が10秒間くらい固まっていました」
イタリアでスタートを切ろうとした矢先に不意打ちしてきたのも、外国人選手枠だった。当時は意気揚々と新しい挑戦へと目を向けたが、イタリアで汗を流し続けた4年後、よみがえった亡霊に暗闇から食らった一撃はあまりにも重かった。
「今までいろいろなことがダメになっても、頑張っていこうと決めていました。だけど、ようやくプロ契約を勝ち取ってからの一発がちょっと…。これでとどめを刺されてしまって、あまりにもショックで、どうしていいのか分からなくて。いつもなら出てくる、頑張ってやり直そうという気持ちがなくなってしまいました。初めて親に頼ったんです。携帯もなかった時代。公衆電話で親父に電話して、『もうサッカー辞める』って。21歳の時です」
外国人選手枠撤廃へ動いたシルヴィオ・ベルルスコーニ首相が、恋い焦がれたミランの会長でもあったというのは、中居さんにとって残酷過ぎる皮肉だった。
<その3「日本人ブームに沸くドイツでの違和感」に続く>