関ヶ原合戦の原因となった、朝鮮出兵時に大名間で確執が生じた事情を探る
大河ドラマ「どうする家康」では、朝鮮半島から諸将が日本に引き揚げてきた。朝鮮出兵では大名間の確執が生じ、それが関ヶ原合戦の要因の一つになった。この点を考えてみたい。
文禄元年(1592)12月、鍋島直茂は咸鏡道からの撤退を朝鮮奉行から言い渡されたが(『高麗日記』)、加藤清正は戦況が不利であることを隠し、朝鮮奉行との話し合いに応じず、平壌で朝鮮軍と明軍に敗れた。清正は小西行長との関係が良くなく、さらに問題をこじらせた。同年9月、清正は注進状を肥前名護屋の木下吉隆に送っていた(「尊経閣文庫所蔵文書」)。
書状の内容は、①行長が攻略する平安道では置目・法度が徹底せず、治安に不安があること、②清正を除く主要な部将が軍議を開き、秀吉の明への動座は困難であると報告しているが、清正は承知していないこと、③秀吉の明への動座は、清正が攻略する咸鏡道のように静謐になれば可能であるが、行長の担当する平安道は治安が悪いので、そのルートからの秀吉の明への動座は受けかねること、の3つである。
朝鮮奉行の石田三成らと黒田孝高らは、ソウルに諸将を集め今後の対策を協議した。しかし、清正はオランカイ(中国東北部)に出陣中で、軍議に出席できなかった。清正は知らないうちに軍議が催されたことに腹を立て、行長の手腕を批判したので、清正と行長との関係は悪化した。
翌文禄2年(1593)2月、清正の背信行為は、朝鮮奉行の増田長盛と大谷吉継から非難された(「鍋島直茂公譜考補」所収文書)。
以前にも清正は、浅野長政に意見をしたことがあった(「浅野家文書」)。オランカイに侵攻した清正は、明への侵攻ルートが困難であることを知った。
そこで、行長の担当する平安道の攻略を希望し、それ以外の担当を拒否した。清正は咸鏡道の治安維持を誇り、逆に行長の不手際を際立たせ、自らの立場を守ろうとした。
朝鮮奉行の増田長盛と大谷吉継は、清正の咸鏡道における敗北を非難した。こうして清正は、三成を中心とする五奉行と関係修復が困難なほどの不和に陥り、のちに大きな禍根を残した。
黒田長政も三成との関係が悪化した1人である。慶長3年(1598)5月、朝鮮で目付を担当した福原直高(長堯)、垣見一直、熊谷直盛は、島津氏に次のとおり報告を行った(「島津家文書」)。
その内容とは、①黒田長政と蜂須賀家政は、蔚山城の救援に向かったが、ついに合戦をせず臆病であったこと、②長政と家政は不興を被り秀吉の逆鱗に触れ、家政が阿波での蟄居を命じられたこと、③目付である早川長政、竹中重利(隆重)、毛利高政もそれぞれ所領での逼塞を命じられたこと、④三成には、筑後と筑前が与えられようとしたこと(結局は与えられず)、⑤福原直高(長堯)、垣見一直、熊谷直盛の3人は、豊後で新しい所領を与えられたこと、の5点である。
結果、長政と家政は窮地に陥り、家政に至っては蟄居を命じられた。実は三成と3人の目付には濃密な人間関係があり、①福原直高(長堯)―石田三成の妹婿、②熊谷直盛―石田三成の妹婿、③垣見一直―石田三成と入魂の関係、だったという。
この一件は取調べがなされ、のちに五大老の連署によって蔚山城における2人の行動は落ち度ではないと結論付けられた(「毛利家文書」)。
2人の疑いは晴れたが、三成に対する怨嗟は残ったと考えられる。朝鮮半島における長政の扱いも、関ヶ原合戦に強く影響することになり、三成に対して強い怒りを抱いたのである。
大友義統も朝鮮出兵で不本意な扱いを受けた1人である。吉統は行長の救援に向かわず、逃亡したという嫌疑をかけられ、改易という憂き目に遭った。
一見すれば、関ヶ原合戦と朝鮮出兵は無関係のように思えるが、現地で起こったさまざまな事件が少なからず影響したのである。
主要参考文献
今井林太郎『石田三成』(吉川弘文館、1961年)
北島万次『豊臣秀吉の朝鮮侵略』(吉川弘文館、1995年)