【「鬼滅の刃」を読む】平安末期から鎌倉時代にかけて、すでに存在していた遊女とは
「鬼滅の刃」遊郭編は、すでに大ヒット。私も大ファンだ。今回は「遊郭編」ということなので、平安末期から鎌倉時代にかけて、すでに存在していた遊女を取り上げることにしよう。
■遊女の歴史
遊女とみなされていたのは、傀儡・白拍子などのいわゆる芸能者たちである。
従来は、彼女らを「化外(けがい)の民」と称して、制度の枠外に置かれた存在とみなされていた。
あるいは「異民族」とまでいわれたことがあったが、現在ではあまりに差別的な発想であり、そのような見解は誤りであると指摘されている。
傀儡とは遊牧民さながら各地を放浪し、男は狩猟を行う傍ら、奇術・幻術を行い人形を操った。
女は化粧をして今様(平安中期から鎌倉時代にかけて流行した、多く七・五調四句からなる新様式の歌謡)を謡い、客を引く風俗の民であったと伝えられている。
■交通の要衝に点在
彼らがあらわれたのは、交通の要衝だった。それらを列挙すると、近江国の境、美濃の野上・青墓・墨俣、三河国の矢作・赤坂、遠江国の橋本・池田・菊川、駿河国の手越・蒲原・黄瀬川、相模国の関本・大磯などだ。
交通の要衝には必ず宿があり、宿泊する旅人がいる。旅では酒と肴がつきものであり、飲酒とごちそうが旅の疲れを癒すことになった。
彼女らが歌舞に優れていたことは、諸書に見えるところである。彼女たちは歌舞でもって、その宿泊客の酒の伴をし、最後は夜の伴をしたのであろう。
■橋本宿の傀儡
鎌倉時代に将軍の蹴鞠の師であった飛鳥井雅有(まさあり)は、橋本宿(静岡県湖西市)で傀儡とともに浜名湖で管弦の遊びを行っていたと記している。
傀儡は人形遣いのことで、宿での定住的な要素が濃いといわれているが、実際には客を求めて各地を放浪したと考えられる。すべては客を得るためだった。
■白拍子とは
そもそも白拍子とは、雅楽や舞、囃子をもって人々を喜ばせる職業である。平清盛と祗王、仏御前、源義経と静御前、後鳥羽院と亀菊などの関係は有名に違いない。
それは、身分を超えた関係でもあった。彼女らは水干に袴姿の男装をしており、鼓を伴奏にして雑芸を謡いながら、男舞を舞ったのである。
ところが、やがて白拍子は各地を放浪し、売春を業となすようになった。
室町期の百科辞書『下学集』には、白拍子に「売色」との説明が施されており、この頃には白拍子=遊女という認識があったのである。
■「酒宴乱舞」と遊女
その様子は、鎌倉時代後期にも確認することができる。
「東大寺文書」の応長元年(1311)11月の備前野田荘(岡山市北区)の荘官・某保広申状は、同荘の代官・対馬殿の非法をあげつらったものだ。
そのなかには対馬殿が白拍子を召し寄せ、昼夜を問わず「酒宴乱舞」に及んでいたと記されている。この行為のなかには、おそらく売色的なものも含まれていたであろう。
この代官は仕事らしい仕事をせず、ひたすら遊女と遊び呆けていたのである。
そればかりか、代官の立場を利用して非法をたびたび行っていた。このように、白拍子は邸宅に招かれて、その土地の有力者と酒宴を共にすることもあった。
■朝廷とも関わりがあった遊女
ちなみに、こうした遊女たちは、決して朝廷と無関係ではなかったようである。
一説によると、内教坊(雅楽寮の教習科目のうち、女楽や踏歌の教習を担当した)という役所は、遊女と何らかのかかわりを持ったと推測されている。
むろん、彼女たちは雅楽寮に勤務し、朝廷で歌舞音曲を披露したのだろうが、それには何らかの性的なサービスが伴ったのかもしれない。
■まとめ
もともとの遊女は専業というよりも、芸能から派生したものだった。旅人や権力者に歌舞音曲を披露しつつ、売春を業となすようになったのである。