北条氏綱は、なぜ「伊勢」から「北条」に改姓したのか?その真の理由
最近では夫婦別姓の議論が高まっているが、姓は重要である。かつて北条氏綱は、「伊勢」から「北条」に改姓したことで知られている。氏綱が「伊勢」から「北条」に改姓した理由について、考えることにしよう。
伊勢宗瑞は北条早雲と称され、その名で知られるようになった。しかし、その後の研究によって、北条早雲とは伊勢新九郎盛時のことで、室町幕府政所執事の伊勢氏の一門だったことが明らかになった。
現在では、北条早雲ではなく、伊勢宗瑞(宗瑞は盛時の法名)と称するのが正しいとされている。また、北条氏は宗瑞の妻が鎌倉北条氏の流れを汲むと主張し、北条高時の流れを汲むとも偽った。それは、なぜだろうか?
大永3年(1523)6月から9月にかけて、宗瑞の子の氏綱は「伊勢」から「北条」に改姓した。同じ頃、氏綱が武蔵侵攻を進めたので、関東管領の山内上杉氏と扇谷上杉氏は氏綱を「他国之凶徒」と指弾した。
両上杉氏が厳しく非難したので、氏綱は対策に乗り出さねばならなかった。その前に、関東管領と伊豆韮山とのかかわりについて、触れる必要があるだろう。
鎌倉北条氏の滅亡後、関東管領の上杉憲顕はかつて鎌倉北条氏の本拠があった伊豆韮山に氏寺の国清寺を開き、上杉氏の姉妹を円成寺(北条氏の菩提を弔う寺院)入れていた。
国清寺は、足利尊氏に挙兵を勧めた上杉憲房(憲顕の父)の墓所だった。つまり、関東管領上杉氏は先祖が鎌倉北条氏の討伐を進めた一方で、その菩提を弔うという矛盾したことを行っていたことになる。
ちなみに、足利政知は堀越御所を伊豆韮山の北条氏の本館跡に置いたが、これは鎌倉北条氏の支配を受け継ぎ、関東支配を行う姿勢を示したといわれている。伊豆韮山は関東管領上杉氏にとっても、堀越公方の足利政知にとっても重要な場所だった。
それは、氏綱にとっても同じことだった。宗瑞が伊豆を支配した際、本拠としたのは韮山城である。すでに、氏綱は本拠を小田原に移していたが、伊豆韮山は決して無視することができない土地だったのだ。
そこで、氏綱は宗瑞が伊豆韮山をしていたことを根拠として、鎌倉北条氏と同一化しようとしたのである。その結果、伊勢の姓を捨てて、鎌倉北条氏の系統であることを示すため北条を姓とした。
こうして氏綱は自らの正統性を主張することにより、上杉氏の批判を抑えようとしたのである。