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衝撃!やまゆり園障害者殺傷事件の植松聖死刑囚が獄中結婚! しかも何と相手は障害を持つ女性

篠田博之月刊『創』編集長
あの凄惨な事件から8年の歳月が…事件直後のやまゆり園(『創』スタッフ撮影)

獄中結婚という衝撃!しかも結婚相手は…

 事件から8年を経て風化の一途をたどっているとはいえ、死者19人を含む多数の障害者が殺傷された津久井やまゆり園の事件はまだ多くの人の記憶に残っているはずだ。障害者施設に勤めていた元職員による犯行という驚くべき事件は世界中を震撼させた。

 2020年に死刑が確定した植松聖死刑囚は東京拘置所におり、再審請求中だが、死刑確定者ゆえ家族と弁護人以外は接見禁止だ。

 その植松死刑囚に驚愕の事態が訪れた。何と「獄中結婚」、しかも相手は障害を持つ女性なのだ。

 本人が書いた自筆の結婚報告を掲げよう。いまだ苦しんでいる事件の被害者遺族にすれば彼の自筆の文書など見たくもないかもしれないが、こうして掲げるのは、結婚という事実を証明するためだ。

植松聖死刑囚自身が結婚を伝えた自筆の文書(筆者撮影)
植松聖死刑囚自身が結婚を伝えた自筆の文書(筆者撮影)

 

 というのも、相手女性のA子さんが婚姻届けを、弁護人を通じて植松聖死刑囚あてに渡そうとしたのは9月初めだった。植松氏本人にも弁護士から話をして同意を得ているから、あとは彼の署名の入った書類を受け取って区役所に提出するだけなのだが、思わぬ事態が続いている、差し入れた書類を東京拘置所が本人に渡さず手続きをストップさせているのだ。   

 約1カ月にもわたって書類を止めているのはどう考えても異常で、10月7日、弁護人が正式に抗議申し入れを行った。「両性の合意のみに基づいて」成立する婚姻を拘置所が止めてしまうというのはありえないことだから、事態は間もなく動くと思うが、死刑確定者をめぐるこういう具体的なやりとりや処遇などはこれまでほとんど世間に知られていない。死刑囚は外部との関係を絶たれてしまうから、実態は秘密のヴェールに覆われてしまう。今回の拘置所の対応は、恐らく結婚によって死刑囚の接見の機会が広がることを拘置所側が警戒したゆえなのだろうが、何とか対応を望みたい。

『創』では、死刑が確定したとたんに接見禁止となってしまう死刑囚のそういう実態そのものに疑問を呈しており、通常は外部に出ない死刑囚の獄中手記を何度も公表している。今回の植松死刑囚をめぐる「獄中結婚」の経緯とともに、死刑囚の置かれた実態、そもそも「死刑囚の獄中結婚」はどういう意味を持っているかなど明らかにしていこうと思う。

今年7月26日の津久井やまゆり園(『創』9月号より)
今年7月26日の津久井やまゆり園(『創』9月号より)

獄中結婚するくらいの覚悟があるのかと尋ねた

 A子さんから最初に電話があったのは7月のことだった。植松氏に何度も差し入れを行い、本人からの礼状も届いているという女性だった。死刑確定者は基本的に家族と弁護人以外は手紙のやりとりも面会もできないのだが、お金の差し入れと、東京拘置所の売店で販売している物の差し入れは可能だ。そして差し入れの際に自分の住所・氏名を書いておけば、植松氏本人から礼状が届く。もちろん通信は禁止だから、パターンの決まったお礼の文言以外は書けないのだが、実はこういう形で彼に差し入れを行っている人が10人近くいるという。

 その中でA子さんは、何とかして植松氏に面会することはできないかと、悩んだ末に連絡してきたのだった。

 私が編集した『開けられたパンドラの箱』や『パンドラの箱は閉じられたのか』(創出版)をお読みいただけばわかるように、私はあの殺傷事件の翌年、2017年夏から植松氏に接見を重ねており、たぶん数十回、おそらく100回近くは会っていると思う。それゆえ、これまでにもいろいろなことで相談を受ける機会があった。

 例えば2020年3月、植松氏の死刑が確定し、まもなく接見禁止となる時期に、彼のおさななじみの友人から、彼に会って最後の別れを告げたいと相談を受け、2日間に4人の友人たちが接見する機会を作ってあげたこともあった。当時は1審の裁判の終了直後で、連日、新聞・テレビの記者が植松氏に接見の申し入れを行っていた。その記者たちの予定を本人に頼んで動かしたのだった。

 その時依頼してきたのは植松氏と小学校から家族ぐるみのつきあいをしてきた、住居もすぐ隣という友人で、彼の貴重なインタビューが『パンドラの箱は閉じられたのか』に収録されている。

 植松氏は接見禁止がついているが、彼が再審請求を起こしたのを機に外部と接触が可能になり、彼の手記や獄中で描いたイラストやマンガが今も『創』に掲載されている。いまだにそんなふうにして植松氏と接触を続けているのは、2020年の裁判が彼の刑事責任能力の有無に終始してしまい、事件の真相が解明されていないと思うからだ。

 そもそも津久井やまゆり園職員として植松氏が見聞きし、体験したことが、彼の障害者観の根っこにあるのではないかと、大規模施設の障害者支援の在り方にメスが入り、検証チームが作られたのは、事件からだいぶ経った裁判開始の前後だった。とても深刻で難しい事件だけに、なかなか真相解明は進まなかったのが現実だ。

 『創』は植松死刑囚に食い込んで一定の関係を作れているが、スタンスはもちろん彼に批判的だし、あのような凄惨な事件が二度と起きないようにするにはこの社会はどう対応すべきなのかを一貫して追究してきた。

 だからA子さんから接触があった時には、植松氏に近づきたいという動機が何なのかをまず質問した。あの事件直後に、植松氏の障害者観に共鳴して被害者である障害者を非難するような書き込みをしたり、障害者団体に脅しの電話をかけてきたりした者がいたと言われる。そういう視点から植松氏にアプローチしたいというのであれば、協力することはできないと思った。

 そしてもうひとつ、死刑確定者は家族と弁護人以外は接見禁止だから、もし本当に植松氏に面会がしたいのであれば、彼と獄中結婚して家族になるくらいの覚悟が必要だ。もし、それがないのであればあきらめた方がよい、と最初にアドバイスした。

 A子さんは即答はしなかった気がするが、後日電話があって、結婚も考えているという返事だった。彼女の家族が反対するのは明らかだから、そうであっても揺るがない覚悟があるのかどうか尋ねたところ、彼女の意思は固いということだった。実際、家族とは当然ながら対立し、彼女はその後、家を出ることになった。

 A子さんとはそれ以降、複数回会って、詳しい話を聞いた。

15歳の時の事件が大きなトラウマに

 A子さんは、過去の事件のトラウマを抱え、時々記憶が飛んでしまうといった障害を発症し、治療も受け、障害者として医師の認定も受けている女性だった。

 その過去の事件とは、彼女が15歳の高校生の時に性的暴行を受けたというものだ。そしてその相手は、本人の説明によると、事情があって入院していた病院で出会った知的障害のある男性だったという。

 それまで性的体験もなかったA子さんは激しい衝撃を受け、当初は親にもそのことを話せなかった。そして数日後に打ち明けて警察が捜査に動き出したものの、相手の男性は否認、証拠不十分ということで立件できなかったのだという。彼女は、現場検証に立ち会うなど警察に協力したのだが、残念ながら事件にはならなかった。そして彼女の心に深い傷が残ったのだった。

 誤解なきようにしなければいけないのは、そういう目にあった相手が障害者だったとしても、障害者ゆえにそうなったと考えると深刻な差別になってしまう。障害者であれ健常者であれ、良い人間もいるし、悪い人間もいる。相手がどういう属性であろうと、犯罪は許されないということだ。

 その性的暴行の件がきっかけでA子さんは記憶障害を発症して普通の生活ができなくなった。朝起きると記憶がなかったり、日常生活以外の大切な事を健忘したりするということがあり、何人かの医師に診てもらって記憶障害(解離性健忘)と診断された。ただし、日常生活においては問題はなく、周囲も彼女が障害者だと思っていない人が多い。

 いずれにせよ自身のPTSDに対処するためにA子さんは治療を続けることになった。そういう過程で、あの津久井やまゆり園の事件が起きた。彼女の内面に複雑な思いが去来し、植松氏に興味を持つことになったらしい。

 このA子さんが抱いた関心は複雑で屈折したものかもしれない。実際に彼女が植松氏にアプローチできたとしても、彼女の抱えたトラウマが克服されるのかどうかわからない。彼女は自殺未遂の経験もあるようで、自分の人生がそう長くはないという思いにとらわれてもいるようだ。

 そして今回、植松氏にアプローチしようという行動に踏み切ったきっかけは、昨年出会ったある人物だったという。彼女の説明はこうだ。

「昨年知り合い、友人になったとても素晴らしい方がいるのですが、過去に有名な事件で服役していたことを知りました。全くそんなことを感じさせないほど、1人の女性を愛して仲間を大事にして優しさで溢れている方だったので、知った時は驚きが隠せませんでした。人には誰しもいろいろな面があり、先入観にとらわれてはいけないと思いました。

 15歳の時の事件の後、障害者施設でアルバイトをしたり、私なりに障害者のことを理解しようと試みてきて、障害者や健常者へのそれなりの思いはありますが、衝撃を受けた相模原障害者殺傷事件の植松聖さんにお会いして、実際にどういう人なのか知りたいと強く思ったのです」

 彼女の話を聞いて思ったのは、果たして実際にどうなるかわからないが、これを機に彼女がトラウマ克服に少しでも近づけることを祈るしかないということだ。植松死刑囚は、執行がいずれなされることは避けられない。ただA子さんはこれから長い人生を生き抜いていくわけで、今回彼女が選んだ道が良い方向につながっていくことを祈るしかない。今回のことで心ない中傷を受けたりすることのないように、見守らなければならないと思う。

 障害者殺傷事件についての考えを尋ねた時の彼女の答えはこうだった。

「相模原障害者施設殺傷事件は、このまま終わらせてはいけないです。同じことを繰り返すということではなく、このまま彼に執行があり、その時はまた世の中はニュースなどでその事件について思い出して考える人もいるでしょう。ですが、また忘れられていく。過去としてしまわれていく。それはどうにかしてでも阻止したいです。痛いほどその方法を考えています」

植松聖死刑囚がいる東京拘置所(筆者撮影)
植松聖死刑囚がいる東京拘置所(筆者撮影)

実は意外に多い死刑囚の獄中結婚と養子縁組

 死刑確定者の「獄中結婚」あるいは「獄中養子縁組」は、実は一般に思われている以上に多い。例えば、『創』に以前、手記を書いた寝屋川中学生殺害事件の山田浩二死刑囚もそうだし、和歌山カレー事件の林眞須美さんも一時、養子縁組した人が接見を重ねていた。

 獄中結婚も養子縁組も意味合いは同じで、要するに、死刑が確定すると、家族と弁護人以外は基本的に接見禁止となってしまう。一部、拘置所の判断で「知人」にも特別接見が認められることはあるのだが、近年は申請しても認められないことが多い。だからそれでも接見したいという場合は、獄中結婚か養子縁組するしかない。

 死刑確定者の接見禁止については、拘置所側は心情の安定のためなどと言うが、多くの死刑囚にとっては心情の安定どころか、社会と隔絶されてしまうことは恐怖の対象でしかない。しかも執行当日の朝に突然知らされるから、毎日、執行の恐怖に怯えて過ごさなければならない。袴田巖さんが精神的変調をきたしたのも、死刑確定の後だった。秘密のヴェールに覆われて実態は知られていないが、拘禁症を発症する人も少なくないと思われる。

 私は、埼玉連続幼女殺害事件の宮﨑勤元死刑囚とは12年間つきあい、創出版から彼の本も2冊(『夢のなか』『夢のなか、いまも』)出しているが、死刑確定の前に彼が最も気にしていたのは、接見禁止にどう対応するかだった。

 彼の死刑が確定したのは2006年2月だが、実はその年は、旧監獄法の改正という歴史的出来事があった。死刑確定者だけでなく刑務所に服役していた受刑者も含めて、外部交通権に変化があった。獄の扉が大きく開かれかけた年だった。

 その影響で、宮﨑元死刑囚とは、死刑が確定して接見禁止がついた後も、私は一時、接見が許されたのだった。宮﨑元死刑囚は接見禁止がついた後に私が接見に訪れたのを見て、驚きかつ喜んで、口元がゆるんだ。いつも接見時には無表情でボーっとしていた彼が初めてそういう表情を見せたことに、私の方が驚いた。

池田小児童殺傷事件の宅間守元死刑囚の結婚

 さて、死刑囚の獄中結婚で大きな話題になったのは、附属池田小無差別殺傷事件の宅間守元死刑囚のケースだった。拙著『増補版 ドキュメント死刑囚』(ちくま文庫)に詳しく書いたが、彼に結婚を申し出た2人の女性のうち1人は『創』の読者で私も知っている人だった。

 実際に結婚したのはその私の知人でなくもう一人の女性だった。敬けんなクリスチャンで、宅間元死刑囚に、人間らしさを取り戻してほしいと、献身的に尽くしたのだった。冷酷非情な宅間死刑囚も、この女性には心を動かされたようで、弁護士に対してこう語っていた。女性の名前をB子とする。

「それ(お金)をB子さんの第二の人生の資金にしてもらって、僕は、この世を去りたいです。無償の精神で、あそこまでしてくれる女は、めったにいない。だから、B子さんは拒否するだろうが、まとまったお金を天にかわって、あげたいのです」

 そしてB子さんにはこう言っていたという。

「執行されるまで離婚しないで欲しい、遺体のままで外に出して欲しい。君と同じお墓に入りたい。僕が君の思想に反する人間であったとしても、最期まで僕に会いに来て欲しい」

 この経緯はその女性自身が手記に書いたもので、その手記の全文も『増補版 ドキュメント死刑囚』に収録した。宅間元死刑囚がこの女性にそこまで求めたというのは驚くばかりだが、すごいのはその女性がこう答えたことだ。

「あなたにお願いされなくとも、私はそうするつもりだったし、そうしたいと思ってる」

 実際に彼女は刑の執行後、宅間元死刑囚の遺体を引き取り、荼毘に付した。そればかりか、その死に際して、夫に代わって被害者に謝罪したのだった。

「夫、○○(旧姓 宅間)守、享年40歳にて、去る9月14日午前8時16分、死刑執行により永眠致しました。ここに生前の夫が行ないました取り返しのつかない大罪に、衷心よりお詫び申し上げます。また、昨年末の入籍の際には、世間をお騒がせし、恐らくは、多くの方々に大変に不快な思いをお掛けしてしまったであろうことを、重ねてお詫び致します。

 本来ならば、親族となった私は、夫に代わり、被害者、及び、遺族の皆様方の前に直々に参上致し、心からのお詫びを申し上げなければならないところなのですが、死刑囚と婚姻したという、非常識とも取られてしまうような立場である私のような者が、未だ心の深い傷が癒えぬままでおられるであろうご遺族の皆様方の前に参上するのは、更にお心の傷を抉ってしまうばかりか、とも思い、静かに時間の経過を待つことだけしか出来ないままに日々過ごして居りました」

「昨年末の入籍以後、夫との関わり合いの中で“家族愛”のような絆を、少しづつでも築き上げていきたいと、私自身は願っておりました。そういう関係性の中から、なんとか“他者の痛みがわかる”そんな心が、彼の中に芽生えることだけを祈り続けました。多くの方々のお力添えもあり、この数カ月の間、少しづつではありますが、彼の中に変化が見受けられたこともありました。が、しかし、精神の苦痛、肉体の苦痛に、最後まで耐えることが出来ずにか、自らの死を求める境地との狭間で、彼の心はいつもガタガタと音を鳴らして崩れてしまう日々の連続でした。夫の犯した大罪は、決して許されることではないとは知りつつも、けれど、もう少し、あと少し、彼と対話を続ける時間が欲しかった、と悔やまれてなりません」

「夫、宅間守の犯した事件により、亡くなられました被害者の皆様、そしてご遺族の方々に対しまして、本人の中から贖罪の意識を引き出せないままに終わってしまったことに、今は、心からの慙愧の念に堪えません。力不足でした。

 本当に申し訳ありません」

 今読み返しても、すごい内容だ。

 ただ、ここでひとつ書いておかねばならないのは、そういう妻の言葉に、被害者遺族からは反発の声が多かったということだ。確かにそれはそうだろう。妻を名乗る人からそう言われても、子どもを無残に殺害された親の気持ちが晴れるはずはない。

 ちなみにB子さんの手記に「夫、○○(旧姓 宅間)」とあるように、宅間元死刑囚は執行時、宅間姓ではなかった。これもあまり知られていない話だが、彼女は家族の反対を押し切って結婚したために、籍をどうするかいろいろ考えなければならなかったのだ。

死刑囚の依頼で養子縁組に応じた女性

『増補版 ドキュメント死刑囚』には、そのほかの例も紹介している。例えば1994年に起きた大阪・愛知・岐阜連続強盗殺人事件で死刑が確定した元少年に養子縁組を依頼され引き受けたという女性の話だ。死刑確定後に接見できる相手をその死刑囚は求めたのだった。

 その女性もクリスチャンで、養子縁組を受け入れた。

「私も驚いたのですが、2010年12月に、淳君から手紙で、養子にしてほしいと頼んできたのです。恐らく、翌年には刑が確定するかもしれないから、そうなると外部との手紙のやりとりも家族以外は制限されることを知っていたのでしょうね」

「死刑囚と養子縁組するというのは、もしかしたら多くの人にとっては考えられないことかもしれません。私は悩んだ末に2011年1月に決断して、淳君の弁護士にそれを伝えるのですが、恐らくそう決断した背景には、私の信仰があると思います」

「淳君は養子縁組で本籍も私のところに移しました。そして昨年、私が復縁したので『連れ子』という形になりました。私との養子縁組までは淳君は母子家庭だったのに、いきなり別の籍に入り、しかも今度は、私の子どもたち3人と兄弟になるわけです。

 子どもたちにとっても、これは大きなことですが、幸い反対していません。実は子どもたちも死刑確定前から淳君と文通とか面会とかしています。無理やりさせたわけじゃなくて、私がよく面会などをしているのを見て、ついてくるようになったのです」

「私の子どもたちは、私と淳君の関係を知っていて死刑囚への偏見は全くないのですが、娘がこれから大きくなって結婚ということになった場合、もしかしたら淳君のことが問題になることもあるかもしれません。でも私は娘にも、もし結婚したい方ができたら淳君のことも隠さずきちんと話をしなさいと言っています」

「淳君が死刑囚であることはもちろん私も考えないわけにはいきません。いつか執行がなされるだろうし、その時に自分はどう行動すべきかと考えてしまうこともあります」

 そして彼女は、2014年4月下旬の面会で突然、意外な話を切り出された。

「4月24・25日の両日、約半年ぶりに名古屋拘置所の淳君に面会しました。今までなら『元気ー?』とか挨拶して話を始めるのですが、24日に面会室に入ると、いつもと違う落ちついた雰囲気で神妙な顔をして淳君がいました。そしていきなり、『最初に話したい、話さなきゃいけないことがある』と言い出したんです。

『自分に刑が執行された時に、遺品とか遺骨についてどうするか、引受人になってもらえるのか確認をしたい』と言うのです。死刑確定者なのでそういう問題に直面していることは理解していましたが、その日突然話を切り出されて、私は一瞬、言葉を失いました」

 死刑囚と家族になるというのは、こういう重たい問題とつながっているわけだ。

 

獄中で病死した死刑囚の最期に駆けつけた獄中妻

 また『創』に昨年、手記を寄せた山田(旧姓・松井)広志元死刑囚は、名古屋で裁判を受けている間に末期のすい臓がんが見つかった。

 がんで死ぬか死刑になるかという状況に立たされた彼は、がんの痛みに耐えかね、手記にこう書いていた。

「もういいんです。早く死刑になりたいです。疲れました。確定して、医療刑務所に行くことが今の願いです」

 実際には確定前に彼は死去してしまった。そして、最期に駆けつけてめんどうを見たのは、当時、獄中結婚していた女性だった。

 死刑囚がどんな思いでどういう状況に置かれているか。そうした実態についてはもっと社会に知らせるべきだし、死刑制度についての議論もそうした実態を踏まえてなされるべきだと思う。植松死刑囚とA子さんの結婚後の状況については、今後も報告していきたい。

 ただA子さんがネットなどでバッシングや攻撃を受けることのないよう、いろいろ考えながら進めざるをえず、最新の『創』11月号にはA子さんの手記なども掲載したが、ネットでの発信は様子を見ながら進めることにしたい。

 前述した宅間元死刑囚と結婚したB子さんは、いっさいメディアの接触にも応じなかった。社会を震撼させたような死刑囚との「獄中結婚」というのは、いろいろな意味で大変なことだ。今回の結婚やその後の経緯も注意しながら報告していこうと思う。

https://www.tsukuru.co.jp/

月刊『創』編集長

月刊『創』編集長・篠田博之1951年茨城県生まれ。一橋大卒。1981年より月刊『創』(つくる)編集長。82年に創出版を設立、現在、代表も兼務。東京新聞にコラム「週刊誌を読む」を十数年にわたり連載。北海道新聞、中国新聞などにも転載されている。日本ペンクラブ言論表現委員会副委員長。東京経済大学大学院講師。著書は『増補版 ドキュメント死刑囚』(ちくま新書)、『生涯編集者』(創出版)他共著多数。専門はメディア批評だが、宮崎勤死刑囚(既に執行)と12年間関わり、和歌山カレー事件の林眞須美死刑囚とも10年以上にわたり接触。その他、元オウム麻原教祖の三女など、多くの事件当事者の手記を『創』に掲載してきた。

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