NHK大河ドラマ「麒麟がくる」で注目!山崎合戦の古戦場を歩く(その1)
まずは平成25年に設置された阪急電車京都線の西山天王山駅からスタート。この地域は西国街道が走り、京都の盆地の伏流水が集まってきていることから、古来水の豊富な場所として知られている。そのため駅前には太閤息継ぎの水や、馬ノ池の水など、現在も汲むことができる地下水が維持されている。
京都縦貫道の高架下に沿って進み、JR東海道線の高架を潜ると右側には小泉川(円明寺川)が見えてる。こちらがまさに秀吉軍と光秀軍が、横に対峙してぶつかり合った山崎合戦の古戦場であり、高架下の公園には石碑や案内板が設置されている。
山崎合戦が行われたのは天正10(1582)年6月13日、秀吉の軍勢は四国討伐に向かっていた織田信孝の軍も加えると約4万近くに膨れ上がっており、一方、光秀は手勢の部隊に僅かに3千が増えただけの1万6千。午後4時に両軍が全面衝突。光秀軍の将兵は、劣勢ながらも一進一退の凄絶な攻防戦を繰り広げたが、開始から3時間後の午後7時、圧倒的な戦力差が徐々に光秀軍を追い詰め、光秀軍は左翼(津田信春隊)が壊滅したことがきっかけで最後は三方から包囲され、敗戦が決定的となった。
明智光秀の本陣は、『甫安太閤記』『細川家記』『新撰豊臣実録』などの文献によると、13日に下鳥羽から御坊塚に移り、そこを本陣としたことになっており、その御坊塚だと想定されているのが境野一号墳である。古戦場跡の石碑から北へ徒歩10分程で着く。
前方後円墳で4世紀後半に造られたと考えられ、地形的に南を見渡すにはうってつけの場所であり、発掘調査では空堀跡や火縄銃の鉄砲玉も出土していることから、光秀が本陣と定めたと考えられてきた。
さらに北に10分も歩くと見えてくる恵解山古墳は、5世紀前半に造られた前方後円墳で、全長128m、後円部の直径約78.6m、前方部の幅約78.6mと、乙訓地域最大の規模を有している。築かれた当時は斜面全体に石が葺かれ、平らなところには埴輪が立て並べられていた。葬られた人物は不明ながら、大きさなどから少なくとも乙訓地域の全域を支配した実力者の墓であったと考えらる。
前方部の中央付近から総数約700点を納めた武器類埋納施設が発見されたことが全国的にも貴重であることから、昭和56年10月に国史跡に指定された。
近年はこちらが光秀本陣であったとする説が有力となりつつある。境野一号墳より規模が大きく、実際に堀跡も発遣され、火縄銃の鉛玉も周囲から出土しているからだ。
仮にここが光秀の本陣であったとすれば、この場所から光秀は敗色が色濃くなる戦況をどのような気持ちで見下ろしていたのだろうか。そして、ついに全面撤退の決断を下すことになった。(その2に続く)