羽柴秀吉は摂関家が揉めているどさくさに紛れて、関白に就任した
前々回の「どうする家康」では、羽柴秀吉が関白に就任し、徳川家康を焦らせていた。秀吉が関白の座に就くことができたのは、摂関家で関白の座を争っていたからなので、その経緯を考えてみよう。
摂関家が関白の座をめぐって争っている頃、秀吉は右大臣ではなく左大臣になりたいと言い出した。しかし、秀吉の要望を受け入れると、持ち回りだった人事計画が狂ってしまい、それは関白の座にも影響した。
近衛信輔は左大臣を秀吉に譲らざるを得なくなったため、「近衛家では元大臣(無官)という状態から、関白になったことは今までなかった」と主張し、すぐに昭実に辞任を迫り、関白職を譲るよう要求した。
これに対して二条昭実は、関白に就任してわずか1年足らずでもあり、「二条家では関白に就任して、1年以内に辞任した者はいない」と反論し、関白辞任を拒否した。
やがて、2人の争いは、朝廷に持ち込まれることになった。とはいえ、お互いの主張は真っ向から対立し、決して歩み寄ったり、譲歩する姿勢はなかった。信輔と昭実の争いは泥沼化し、解決は極めて困難な状況に陥った。
結局、2人の争いは秀吉のもとに持ち込まれ、解決が図られることになった。早速、秀吉は配下の前田玄以と右大臣の菊亭晴季の2人に相談を持ち掛け、穏便な解決策を検討したのである。
ここから事態は、急展開を遂げる。それは、晴季からの意外な提案にあった。その提案とは、秀吉を関白職に就けるという奇想天外なものだった。
提案を受けた秀吉は「いずれを非と決しても一家の破滅となるので、朝家(朝廷)のためにならない」ともっともらしい理由付けをして、関白就任の意向を示したのである。しかし、秀吉が関白に就任するには、大きなハードルがあった。
そのハードルとは、秀吉の出自である。秀吉は武家どころか、ただの農民の子に過ぎなかった(出自については諸説ある)。関白に就任するには、五摂家という公家のなかでも最高の家柄出身者に限られている。この点をどう解決するかが、大きな焦点になった。
その鍵を握ったのは、すでに引退していた信輔の父・前久である。前久は秀吉を猶子として迎えることとし、その交換条件として、将来、信輔を関白に就けることを約束させたのである。それは、前久の苦渋の決断だった。
猶子とは仮の親子関係のことで、相続を目的とせずに結ぶものである。つまり、前久・信輔父子は、秀吉の関白就任はあくまで一時的なものに過ぎず、のちには関白職が近衛家そして五摂家のところに戻ってくると信じていた。
このようなプロセスを踏まえて、秀吉は天正13年(1585)7月、晴れて関白に就任したのである。しかし、秀吉が一連のプロセスを計画的に仕組んで、関白に就任したという疑惑を拭い去ることはできない。
案の定、この約束は守られず、のちに秀吉は養子の秀次に関白職を譲った。世襲である。おそらく秀吉は、最初から関白の座を五摂家に返還する意思はなかったと考えられる。なお、秀吉が豊臣の姓を与えられたのは、関白就任後のことである。
主要参考文献
渡邊大門『清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?』(朝日新書、2020年)