伝説のチャンピオン、40歳の戦い
フロイド・メイウェザー・ジュニアの”カムバック”(8.26)が近付いてきた。「40歳のリング復帰」と聞いて、私が思い出すのはシュガー・レイ・レナードであり、トーマス・ハーンズだ。
レナードについては、先日お届けしたので、今回は40歳だったハーンズのファイトを再録する。
==============================================================
底冷えのするミシガン州デトロイト。吐く息さえも凍り付いてしまいそうなこの場所が、今夜は、熱気でむせ返っている。
1998年11月6日、ジョー・ルイス・アリーナ。デトロイトの人々は祭りの始まりを、今か今かと、待ち侘びていた。
この街から生まれたスーパースター、80年から92年までの間にウエルターからライトヘビーまで5階級に渡って世界チャンピオンの座に君臨した、トーマス・“ヒットマン”・ハーンズ(40)が、1年9ヵ月振りのリングに上がろうとしているのである。ホームタウンのファンたちは、久々にヒットマンの勇姿が拝めるとあって、心をトキメかせていた。
しかし、名選手の復帰戦にしては、少し淋しい気もする。全国ネットのTV放送はなし。記者会見に集まったメディアの数も30に満たなかった。俯瞰すれば、この試合は、さほど価値のあるものではないのかもしれない。が、観客はこれ以上の幸せは無いといった表情で、メインイベントの開始を待ち受けていた。
ハーンズが第一線で活躍した80年代とは、中量級が最も輝いた時代だった。当時、モハメド・アリという希代のカリスマを失ったボクシング界からは、客足が遠のこうとしていた。これに待ったをかけたのが、同じく5階級を制した、シュガー・レイ・レナード、ライト、ウエルター、ジュニアミドル、ミドルのチャンピオンベルトを巻いたロベルト・デュラン、統一ミドル級タイトル12度の防衛に成功したマーベラス・マービン・ハグラー、そして、ハーンズだった。同時代の同じクラスにこれだけの面子が揃うのは、ボクシング史上初めてのことで、各々が“伝説”と呼ばれるだけの技量を持ち、それぞれ、他の3人のチャンピオンと死闘を繰り広げた。
ハーンズは84年にWBCジュニアミドル級タイトル防衛戦で、デュランをノックアウトし、翌年ハグラーの持つ統一ミドル級王座に挑戦して、第3ラウンドにKOで敗れた。また、レナードとは、81年にウエルター級王座統一、89年にスーパーミドル級のベルトを掛けて対戦と、2度に渡ってグローブを交え、1KO負け、1引き分けという結果を残していた。
彼は、鮮やかなKO勝ちを収める一方で、負ける時は派手にキャンパスに沈んでしまうという打たれ弱さも持っていた。そんな勝ちっぷりも、負けっぷりもいい点が、ヒットマンの魅力だった。
80年代も後半に入ると、中量級から、マイク・タイソンを中心としたヘビー級へと主役の座は移動する。
87年、13度目の防衛戦でレナードに敗れたハグラーは、その判定を不服として、リングを去っていった。気分屋のレナードはブランクをつくってはカムバックを繰り返し、40歳となった97年3月に、IBCタイトルに挑戦し、為す術も無く敗れていた。4人の中で最年長のデュランは、50歳までリングに上がった。
その間のハーンズといえば、レナード、ハグラーの他に、2つの敗戦を喫していた。“噛ませ犬”として選んだ筈のアイラン・バークレーに88年にWBCミドル級タイトルを、そして92年にはWBAライトヘビー級のベルトも奪い取られたのだ。
一度ならず二度も格下と思われた選手に負けてしまったことで、これ以降のハーンズの商品価値は著しく下がり、なかなか名のあるプロモーターから声が掛からないのが現状だった。このままズルズルと引退してしまうのか……、と思われていた今年の春、ハーンズがトレーニングを再開したという情報を得た私は、デトロイトに彼を訪ねた。
「カムバックは、秋ぐらいになるんじゃないかな」
開口一番にハーンズは語った。1958年10月13日生まれのヒットマンはこの時、39歳。既に富も栄光も手に入れた彼が、何の目的でカムバックするのだろう。リングにまだやり残したことがあるのだろうか? 私はストレートに質問した。
「年をとったから、衰えて引退っていうのは、オレには当てはまらない。まだまだ十分世界レベルの力を持っていると思う。もう一度世界タイトルを獲るために、リングに上がるんだ。次はWBAかWBCのクルーザー級のベルトを狙うつもりだ」
鋭い視線は、彼の決意が堅いことを物語っていた。
「確かに金は稼いだね。オレを称えてくれる人、尊敬してくれる人が沢山いるってのも嬉しいことさ。でも、自分ではまだまだ上に行けると思っているんだ」
この発言を聞いて、彼のトレーナー&マネージャーであるエマニュエル・スチュワードがハーンズを形容する際に用いた“コンペティター(Competitor)”という言葉を思い出した。“生まれたときから厳しい闘争本能を持ち合わせた人物”という意になろうか。
ヒットマンがスチュワードの元へやって来た時、彼は痩せっぽちで、何の取り柄もないファイターだったという。まさか、後に世界チャンピオンになるとは思えなかった、とスチュワードは言ったものだ。そんな彼を伸ばしたものとは、闘争本能だった。打ちのめされても、リングに這いつくばっても、ハーンズは決して練習を休まなかった。まさに、ファイティングスピリッツの塊だった。
「あぁ、ボクシングは才能なんて関係ない競技なんだ。オレはそう信じている。一番大事なものはハートだよ、ハート。ハートが強いボクサーをつくるのさ」
ヒットマンの潰れた鼻は、その言葉を象徴しているかのように見える。元が端正な顔立ちだけに、この鼻は、余計に目を引く。ならば“コンペティター”であるハーンズとは、どのようにつくられたのだろうか。
「ボクシングを始めたのは、モハメド・アリに憧れたから。あの人はオレのアイドルだった。あとはね、オレが育った地区は貧民街でさ、そりゃあ危険なところだったんだ。毎日が戦争みたいだった。生き抜くためには、自分をしっかり持ち、他人に勝たなきゃならなかった」
テネシー州メンフィスで生まれたハーンズには、二人の姉がいる。彼が誕生してしばらくして、両親が離婚。母親はその後再婚する。トラックドライバーだった義父は、メンフィスより、デトロイトの方が仕事にありつけた。そこで、一家で移り住んで来たのだった。
新しい父親と母は、四人の弟と二人の妹をもうける。大家族となったハーンズ家は、当然のことながら貧しく、治安の悪い場所にしか住めなかった。そして、遠い道程をドライブする父は、家を空けることが多かった。長男のハーンズは、幼いながらも家族を守ろうと務めたのだった。
「一家皆で幸せに暮らす。それには、サバイバルに勝たなきゃならなかった。両親はオレたちのために凄く苦労していた。一日も早く、楽をさせてやりたかった」
ヒットマンはグローブを手にした時、既に追い込まれた状態だったのかもしれない。誰よりも激しく練習し、誰よりも真剣に走った。
やがて彼は、アマチュアの大会で優勝を飾るまでに成長し、77年、プロに転向する。そして29連勝を重ね、WBAウエルター級チャンピオンとなる。だがこの直前、彼を育ててくれた父が病で倒れ、還らぬ人となってしまう。
「きっと、オレがチャンピオンになることを信じて旅立っていったと思う。今でも父には感謝の気持ちで一杯だよ。やっと恩返しが出来るって時だったから、本当に残念だった。でも、最初のタイトルはただの“始まり”でしかなかったな。家族のことを考えると、まだまだ稼がなきゃならなかったから」
そういったモチベーションが、ハーンズを5階級制覇へと導いたに違いない。
「レナードに負けたときは、すぐにでもリターンマッチをやりたかった。同じ間違いは繰り返さない自信もあったしね。でも、彼は8年も待たせただろう。あれには参ったよ。オレの最大のライバルっていうのは、レナードだろうな。お互い長所も短所も知り尽くしているから、やり辛いのさ。もしかしたら、彼とは引退までにもう一度闘うかもしれないね」
ハーンズがレナードとの再戦に漕ぎ着けるのに8年という歳月を要したのは、レナードが、ハーンズを警戒していたから、という噂がある。また、リ・マッチはドローと記録されているが、これはレナードが政治力を味方に付けていたからで、実際はハーンズ勝利を唱える声が圧倒的だ。
「これまでのキャリアで最もショックだった敗戦は、ハグラーに喫したものだね。彼はグレートだった。心から尊敬しているよ」
ハートを武器に世界王者に上り詰めたハーンズには、天性のハードパンチャーであるハグラーの牙城は崩せなかったのかもしれない。ハーンズとハグラーでは、明らかにパンチ力、骨格に差があった。
「バークレーね……。リングでは色々なことが起こるから……」
“天敵”については、苦笑いでごまかしていた。
ジョー・ルイス・アリーナの時計の針は、間もなく23時になろうとしていた。
地元の大声援を受けたヒットマンは、無名選手にワンツーをブチ込み、1ラウンドKO勝ちでカムバックを飾った。ノックアウトまで要した時間は僅かに88秒。しかし、右ストレートをヒットさせた後、自らもバランスを崩してリングに尻餅をついてしまった姿に、かつての輝きはなかった。
試合後、彼は間隔を開けずに次の試合をしたいと語り、今後闘いたい相手として、バークレーの名前を挙げた。
ピークを過ぎようとも、ラスベガスやアトランティックシティといったメッカのリングから遠ざかろうとも、ハーンズは“コンペティター”として、生き抜こうとしているのだった。
トーマス・“ヒットマン”・ハーンズ、40歳。彼の闘いは、まだまだ終わらない。
(初出 PENTHOUSE 1999年2月号)