仏教の戦争責任③ 阿修羅像が「疎開」していた
奈良や京都は国宝や重要文化財に指定された仏像の宝庫である。だが、戦時中、空襲から人命を守る目的で仏像や伽藍の「疎開」が行われたことは、ほとんど知られていない。興福寺の阿修羅像や東大寺の金剛力士像、法隆寺五重塔などが疎開。その移動には囚人らが動員されていた。だが、乱雑に運ばれたために破損する例もあった。
疎開とは、主に対象は学童で、都市部や軍需工場がある居住地から、縁故を頼ったり、集団で地方都市に避難したりすることである。
だが、疎開は人間だけではなかった。
「傷ついた四体の仏像が横たわっている姿は痛々しかった。殊に腰部の砕けた阿形の金剛力士像には神将像としての威厳はない。忿怒の形相が悲しみをたたえたものにみえ、激しい傷の痛みに堪えきれず右手で虚空をつかみ、口を開いて絶叫している苦悶の相に感じられた」(吉村昭『焔髪』)
吉村昭は緻密な取材や資料分析をもとにして、多くの優れた作品を残した作家である。近代日本戦史を題材にした作品も多く、『戦艦武蔵』『陸奥爆沈』などで知られる。その吉村の戦史物に、東大寺三月堂の「仏像疎開」を扱った作品『焔髪』がある。
作品は終戦間際に実施された、東大寺における国宝の仏像の疎開の様子を、僧侶の葛藤とともに描いており、概ね史実に添っている。
破損覚悟で緊急疎開
奈良は言うまでもなく、飛鳥・奈良時代(6世紀前半〜8世紀後半)に造られた文化財の宝庫である。最古の部類では、渡来系仏師の鞍作鳥(止利仏師)が手がけた飛鳥寺の釈迦如来坐像(飛鳥大仏)、法隆寺金堂釈迦三尊像などの金銅仏が著名だ。
8世紀前半には、製作費が安い土製の塑像が盛んに作られ、地方寺院にも広がっていく。また、漆を盛って造形する乾漆像も普及した。だが塑像や乾漆像は脆く、安易な移動などは破損の危険性が伴う。現代において仏像が仏堂から移動され、博物館などで展示されるケースはあるにはある。だが、その際には特別な技術を有する美術品輸送専門の業者が、慎重に慎重を期して梱包し、多額の保険をかけたうえで輸送している。
空襲の危険性が高まってきた終戦間際、美しい仏たちが破損も覚悟の上で「緊急疎開」させられていた事実を多くの国民は知らない。
1943(昭和18)年12月14日に閣議決定されたのが、次の「国宝、重要美術品ノ防空施設整備要綱」だった。空襲によって破壊されてしまう危険性が高い「防空特別地域」として京都市と奈良市が挙げられ、疎開の方針と措置について記されている。
第一、方針
国宝、重要美術品中特ニ貴重ナル御歴代ノ宸翰、勅願ノ建造物等ヲ始メ我ガ光輝アル国史ノ徴証ナル諸物件ニ対シ速カニ防空施設ヲ実施シ、或ハ分散疎開セシメテ空襲ニヨル被害ヲ最小限度ニ防止スルコトハ啻(ただ)ニ我ガ尊厳ナル国体ヲ擁護スルタメノミナラズ大東亜ノ文化建設上必須ノ要務タルニ依リ国宝、重要美術品中其ノ危険地域ニ所在シ特ニ貴重ト認ムルモノニ付緊急防護措置ヲ講ゼントス
(試訳:国宝や重要美術品の中に特に貴重な天皇直筆の書や、天皇が祈願のために建てた建造物などを、速やかに空襲から防御できる体制をとること。あるいは、分散疎開させて空襲による被害を最小限に食い止めることは、国体を守ることにつながるだけではなく、大東亜における文化を発展させる上で必要なことである。国宝、重要美術品や、空襲の危険がある地域にある特に貴重な宝物は緊急に防御する措置を講ずること)
国宝仏が続々と疎開
仮に解体疎開できない建物は、迷彩ネットなどを被せて周囲の緑と同化させたり、堂宇の近くに貯水池を掘って速やかに消火できるようにしたり、機銃掃射などから建物を守るために土塁などを築いたりせよ、と命じた。
また、移動できる宝物は空襲の可能性の低い山中の寺や民家などに疎開させ、同時に「最悪の事態」が起きたときのために、写真などの記録を取っておくように――などとしている。
この閣議決定を踏まえ、奈良県ではさっそく、東大寺、法隆寺、興福寺の3寺院の擬装と仏像疎開の準備に入ることになった。
1944(昭和19)年1月には、東大寺で「第一回国宝防空施設協議会」を開催。同時に県の技師らは帯解(奈良市山町)にある尼寺、円照寺などを疎開先と決め、清掃作業などを実施した。
ちなみに円照寺は東大寺の真南およそ6kmにある、門跡寺院で別名「山村御殿」とも呼ばれている。三島由紀夫の絶筆『豊饒の海』に登場する「月修寺」はこの円照寺がモデルである。
疎開先に指定された寺院はほかに、奈良市内から南東に20kmほど離れた大蔵寺(大宇陀町=当時)や、奈良市北西部の正暦寺(しょうりゃくじ・五ヶ谷村=当時)があった。
こうした、文化財の疎開は盗難を避けるために内密に実施された。
東大寺や興福寺では1944(昭和19)年3月下旬以降、荷造りがはじめられた。先陣を切ったのは興福寺である。弥勒菩薩像など国宝66点(旧国宝)が、円照寺に移された。これが国宝仏の疎開の第一弾である。
興福寺では、10月までに世親菩薩像などの19体を大蔵寺に送るなど、粛々と作業が進められた。一方で、東大寺は内部で紛糾した。
境内末寺で組織された塔頭住職協議会では疎開賛成派と、反対派の真っ二つに割れた。西大門の勅額(天皇宸筆の扁額)など移動に問題のない文化財は、大蔵寺に移すことに躊躇はなかった。だが、
「三月堂の諸仏の疎開はおいそれと実施にいたらなかった。天平の塑像や乾漆像がほとんどで、移送中の損傷が憂慮された」(『奈良市史』)。
この様子を吉村昭は作品『焔髪』でも、このように表現している。
「たとえ戦火にあって焼滅しても前例のないことをすべきではないと強く主張する者と、戦時であることを考え国宝を守るため文部省の指令に従う方が賢明だと強調する者の間で、激しい議論が交わされた」
仏像の疎開は、平城京の中に東大寺が造られて以降、初めてのこと。前例踏襲主義の仏教界の中で反対意見がわき上がったことは、さほど不自然ではない。
奈良の古刹が所有していた国宝諸仏ほかの疎開先は次の表の通りである。
【奈良における寺院の国宝仏等の疎開】
◆東大寺の宝物の疎開先と対象◆
円成寺(柳生村)ーー三月堂四天王立像
円照寺(帯解町)ーー重源上人勧進帳‧舞楽面·伎楽面
正歴寺(五ヶ谷村)ーー地蔵・不動・仁王像その他
大蔵寺(大宇陀町)ーー西大門勅額(9個)・二月堂本尊光背·快慶作木造 地藏菩薩立像
◆興福寺の宝物の疎開先と対象◆
円照寺ーー弥勒菩薩木造坐像・薬師経5巻
舟知家(吉野郡)ーー阿修羅像など乾漆八部衆立像、十大弟子像その他
大蔵寺ーー世親菩薩像
◆薬師寺の宝物の疎開先と対象◆
円照寺ーー絹本著色吉祥天画像
◆法隆寺の宝物の疎開先と対象◆
佃家(柳生村)百済観音・金堂聖観立像・聖霊院聖如意輪観音像ほか
大橋家(東山村)夢違観音像・金堂四天王立像
松田家(東山村)九面観音像ほか
藤熊家(大宇陀町)金堂阿弥陀三尊像ほか
今西家(矢田村)道詮律師坐像ほか
長弓寺(北倭村)東院聖太子像・食堂梵天像ほか
松尾寺(矢田村)十二神将立像(12点)
岡原家(京都・笠置町)百済観音像・橘夫人念持仏ほか
出所:奈良市史、地理歴史教育12
阿修羅像が民家の土蔵に疎開
驚くのは、一般の民家が疎開先に選ばれていたことだ。吉野山の葛餅商舟知家など豪商の土蔵が疎開の指定地になった。舟知家では、興福寺の阿修羅像や八部衆像、十大弟子像などの超一級の文化財33点を引き取っている。
舟知家では終戦直前、興福寺から阿修羅像などが白布でぐるぐる巻きにされた状態で山中を運ばれてきて、およそ60の狭い土蔵の中に、終戦をまたいで1年ほど展示されていたという。
ほかにも世親菩薩像、薬師寺の吉祥天画像、朝護孫子寺の信貴山縁起絵巻など、誰でも知っている文化財の数々が、人知れず、疎開させられていたのである。
聖徳太子が創建した斑鳩の法隆寺では、目を疑うような疎開劇があった。表のような数々の古仏のほかに五重塔(高さ34m)や金堂が解体(金堂は上層部のみ)されて、疎開させられていたのである。
法隆寺では1942(昭和17)年から五重塔の解体修理工事に着手していた。しかし、大工や技師が次々と戦地に出征。折しも本土空襲が激しさを増してくると、修理どころではなくなり、急いで解体を進め、解体部材は隣村に大八車を使って避難させた。1944(昭和19)年12月には初重部を残すまでになった。初重部(最下層)は空襲から逃れるための掩体を被せた。
法隆寺金堂が疎開
法隆寺では続いて、金堂の解体にも着手した。金堂は西院伽藍最古の、法隆寺の中心伽藍で、入母屋造りの二重構造になっている。金銅には鞍作鳥作の国宝釈迦三尊像などが祀られている。
金堂の疎開では、初重部まで解体が進められたが、金堂には貴重な壁画が描かれており、解体は苦渋の選択であった。法隆寺解体に関わった建築学者の浅野清(1991年没)は、その著書『古寺解体』(學生社、1969年)の中でこう回顧している。
「金堂上層をはずし終った頃には艦載のジェット機が、作業をしている頭上をかすめて飛ぶようになった。あせりにあせって、天井下の天人を描いた壁体も、思い切ってぬきとり、担架で運びおろしたのであったが、その頃は吉野工業学校の学徒出陣に頼って、やっと人手を確保する状態であった」
解体された金堂の部材は裏山に運ばれ、諸仏は旧柳生村や旧大宇陀町の商家の土蔵に分散疎開された。しかし、金堂の本尊である釈迦三尊像(鞍作鳥作)と夢殿の秘仏救世観音像の疎開だけは、法隆寺貫主の佐伯定胤は、
「いざとなったら、私はともに池に沈む覚悟である」
と言って、首を縦に振らなかったという。
「仏教と戦争」の関係性について、本コラムで継続的に記述していきたい。本稿は『仏教の大東亜戦争』(鵜飼秀徳、文春新書)の一部を再編集した。仏像疎開の詳細や、囚人を使った疎開の様子などは、同書を読んでいただければ幸いである。