公害訴訟のさきがけとなった、信玄公旗掛松裁判
公害は高度経済成長時代に問題になっており、数々の訴訟が起きたことさえあります。
そんな公害訴訟ですが、戦前にも似たようなことはありました。
この記事では戦前にあった公害訴訟、信玄公旗掛松事件について紹介していきます。
北巨摩のシンボルだった、信玄公旗掛松
七里岩台地と日野春原野は、八ヶ岳南麓に広がる歴史的に重要な地域です。
近世、甲府盆地と信州諏訪地方を結ぶ主要な街道のひとつである信州往還が通り、現在は「七里岩ライン」として知られています。
地形的には、火山泥流によって形成された台地上に位置し、かつて「日野春原野」と呼ばれる原野が広がっていました。
しかし、水利の悪さから開発は遅れ、明治初年にようやく開拓が始まったのです。
1873年、山梨県令藤村紫朗によって「日野春開拓計画」が策定され、移住者によってこの原野は徐々に開墾されました。
現在の地名「富岡」は、開拓の指導者であった富岡敬明に由来しています。
この地域のシンボル的存在であった「信玄公旗掛松」は、高さ約15メートル、周囲7メートルの巨木で、かつて武田信玄が軍旗を掛けたとされる名木です。
しかし、実際には信玄の時代より後に育ったものであることが鑑定により判明しているのです。
それでも、戦の際に農民兵を集めた伝説が残り、地元の人々に親しまれてきました。
信玄公旗掛松は1914年に枯死しましたが、日本の文化遺産保護の歴史においても重要な役割を果たしており、信玄ゆかりの地として今も語り継がれています。
傲慢の極みだった鉄道院
1872年、新橋駅と横浜駅の間に日本初の鉄道が開業されて以来、鉄道は急速に全国へと広がっていきました。
政府主導で始まった鉄道事業はやがて民間企業も参入し、競争が激化します。
特に、甲武鉄道は1886年に山梨県出身の実業家たちによって設立され、東京と山梨を結ぶことを目指しました。
1889年には新宿から八王子まで開通し、中央本線の重要な区間が形作られたのです。
しかし、私設鉄道の過熱や投機的な計画が問題となり、政府は幹線鉄道の国有化を進める方針に転換します。
これにより、1892年の鉄道敷設法が制定され、1906年には鉄道国有法が公布されたのです。
甲武鉄道もその一環で国に買収され、八王子以西の区間は国が主導で建設されることになりました。
この背景には、日清・日露戦争を経て、軍事輸送の重要性が認識されたことが大きな要因となっています。
中央本線の建設は、困難を伴いながらも進められました。
笹子トンネルの貫通や急勾配の克服により、1903年には甲府まで、翌年には韮崎から富士見までが開通します。
信玄公旗掛松事件で話題となった日野春駅も、この区間に位置しています。
1906年には甲武鉄道が国有化され、中央本線の基盤が整いました。
当初、鉄道の管理は逓信省が行っていましたが、1908年には鉄道院が発足し、国の鉄道運営を一手に引き受けるようになります。
この時代、鉄道は国家の象徴であり、「国は悪をなさず」という考え方が強く浸透していました。
たとえば、1909年には火の粉で引き起こされた火災に対し、鉄道院が賠償を拒否する事件が発生したのです。
こうした対応からも、鉄道は国家の一部であり、賠償や補償に関する問題は後回しにされることが多かったことがうかがえます。
信玄公旗掛松事件もまた、この「国の権威」を背景に発生したといえ、当時の鉄道に対する国民の認識や国家の役割が色濃く反映された事件だったのです。