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関ヶ原合戦において、豊臣秀頼は西軍の総大将として出陣する予定はなかった

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
大阪城。(写真:アフロ)

 大河ドラマ「どうする家康」では、いよいよ関ヶ原合戦がはじまる模様が描かれていた。その際、豊臣秀頼が西軍の総大将として、関ヶ原に出陣するのではと思わせる描写があった。秀頼が西軍の総大将として出陣する予定があったのか、考えてみることにしよう。

 慶長5年(1600)7月17日、三奉行(長束正家、前田玄以、増田長盛)が「内府ちかひの条々」を発して、徳川家康の討伐を諸大名に呼び掛けた。その際、毛利輝元、石田三成らも加担し、西軍の主力メンバーとなった。

 輝元らの挙兵の目的は、家康を豊臣政権から排除するためのクーデターである。別に、彼らは秀頼から指示を受けたわけではなく、また秀頼が西軍を率いていたわけではない点に注意すべきであろう。

 輝元らが決起した際、その拠点となったのが秀頼のいる大坂城だった。彼らが大坂城を拠点としたのは、あたかも秀頼を擁立しているかのように見せたかったからだろう。

 秀頼からすれば、事前に計画を打ち明けられたわけでもないだろうし、総大将になるとも言っていないだろうから、大変驚いたに違いない。つまり、秀頼は西軍に与する意思を明確にしていないのだから、そもそも総大将として関ヶ原に出陣する理由がない。

 秀頼が三成から出陣要請を受けたとの説を唱える向きもあるが、最近の水野伍貴氏の研究によると、そういう事実を示した史料はないと指摘されている。

 三成ら西軍の首脳は、「秀頼のために」と盛んに訴えているものの、出陣を求めるまでには至らなかった。それは、おそらく三成ら西軍と家康との私戦に過ぎなかったからだろう。西軍が秀頼の名前を出すのは、あくまで大義名分に過ぎなかったのである。

 また、関ヶ原には玉城なる城の跡があり、それが秀頼を迎える本城だったという説がある。西軍は最初から関ヶ原を戦場と決めて東軍を誘い込み、西軍は秀頼を推戴して、玉城に入る計画だったという。

 しかし、この説も先述した水野氏によって明確に否定されている。そもそも、秀頼の玉城入城計画を裏付ける史料がないうえに、城を着工した時期が問題になるだけでなく、その位置(主戦場から外れている)が適当ではないという。

 このような水野氏の指摘を見るかぎり、秀頼が関ヶ原に出陣する計画はなかったと考えるのが妥当だろう。仮に、秀頼が西軍の総大将と認識されていたならば、家康は戦後に改易などの厳しい処罰を科していたと考えられる。

 しかし、そのような措置をしていないのだから、関ヶ原合戦の性格は、あくまで東軍と西軍の私戦だったことがわかる。

主要参考文献

水野伍貴『関ヶ原合戦を復元する』(星海社、2023年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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