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【戦国こぼれ話】出会いは人生を大きく変える。豊臣秀吉と蜂須賀小六の運命的な出会いとは!?

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
若き頃の豊臣秀吉は、野宿で日々を過ごすなどし、貧しい生活をしていた。(写真:GYRO PHOTOGRAPHY/アフロイメージマート)

■出会いの重要性

 世間では相変わらず出会い系サイトなどで、酷い目に遭っている人が多いようだ。あるいは、破廉恥教員との出会いで、不愉快な思いをした人も多いだろう。出会いには、良い出会いと悪い出会いがある。良い先生、良い上司・同僚に恵まれて、幸せな人は多いだろう。良い出会いは、人間を成長させるうえでも有意義である。

 かの天下人の豊臣秀吉にも、出会いにまつわる有名なエピソードが残っている。

■秀吉のこと

 豊臣秀吉は百姓の出身といわれており、青少年期における関連史料が乏しい。そのような事情もあって、さまざまな逸話やエピソードが残っている。豊臣秀吉が矢作橋(愛知県岡崎市)で蜂須賀小六(正勝)と出会ったというのも、その有名な一つである。

 天文6年(1537)、秀吉は木下弥右衛門と「なか」の子として誕生した。父は百姓とも足軽ともいわれているが、その素性は詳しくわかっていない。後年、秀吉が関係者に述懐したところによると、貧しい生活を送っていたのは事実である。秀吉は貧しさから抜け出すため、大志を抱いたのであろう。

 ところが、秀吉が7歳のときに父が亡くなると、近所の光明寺に入れられたという。しかし、寺院の生活に飽き足らなかった秀吉は、すぐさま寺を抜け出して各地を放浪した。

 秀吉は15歳になると、父の遺産から1貫文(現在の貨幣価値で約10万円)を受け取り、とうとう家を飛び出した。秀吉は武士になり、戦国大名に仕官することを夢見ていたのである。

■秀吉と小六の出会い

 当時、東海地域(駿河・遠江・三河)で威勢を振るっていたのは、今川義元であった。今川氏に強い憧れを抱いていた秀吉は、まず義元のいる駿河に向かったのである。今川氏に仕官を願っていたことは、もちろん言うまでもない。

 その途中、貧しい秀吉は、矢作橋の上で一夜を過ごそうとした。とても宿に泊まる経済的な余裕がなかったからだ。そこへ登場したのが、当時、野武士集団として盗賊まがいのことをしていた蜂須賀小六らであった。

 蜂須賀氏は、尾張国海東郡蜂須賀郷(愛知県あま市)を拠点とした国衆である。大永6年(1526年)、小六は正利の長男として誕生した。

 小六らは、矢作川の上で寝ていた秀吉の頭を誤って蹴飛ばしたといわれている。怒った秀吉は小六らに対し、「人の頭を蹴るとは無礼である。謝れ」と侘びを入れるよう、小六を睨みつけたというのである。有名なエピソードとしてご存知の方も多いであろう。

 これが2人の運命的な出会いであり、秀吉の才覚を認めた小六は、その配下に加わったのだ。以後、小六は秀吉の天下取りを陰で支えたのである。

■実は嘘だった秀吉と小六の出会い

 ところが、この話には大きな欠陥があった。東京帝国大学の渡辺世祐氏は、当時、矢作川に橋が架かっていなかったことを指摘し(渡し船を利用していた)、このエピソードが誤りであることを明らかにしたのである。

 蜂須賀小六は秀吉の立身出世後、有力な部将の一人として従うようになる。小六の子・家政は阿波を与えられ、藩祖となった。先に取り上げた2人の出会いの逸話は、おもしろおかしく強烈なエピソードで語ろうとしたのであろう。

 やはり、出会いは良いものに限る。皆さんも、良き出会いを。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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