『光る君へ』は「天皇」から見るとわかりやすい この時代の兄弟争いはなぜ弟が勝っていくのか
第4話で円融天皇から花山天皇へ
大河ドラマ『光る君へ』では4話で主上が代わった。
円融天皇(坂東巳之助)から花山天皇(本郷奏太)への譲位である。
ドラマでは、円融天皇にとっては不満たらたら、かなりの恨みを抱いた譲位であった。恨みは強く詮子(吉田羊)に向けられていたが、それはその父の藤原兼家(段田安則)を恨んでいる、ということであろう。
毒を飲まされていたことを察知した主上(おかみ)がその推定犯人を許すはずがない。
このあと3回の天皇交代がある
『光る君へ』では、あと3回、天子さまが交代する。
いまの花山天皇(本郷奏多)は2年後に一条天皇(塩野瑛久)に代わる。
一条天皇はそこそこ在位して、三条天皇(木村達成)に代わる。
三条天皇はそんなに長く在位せずに、後一条天皇へと代わる。
この後一条天皇の御代で『光る君へ』は終わるはずだ。
『光る君へ』の天皇は5人だけで藤原氏は多数
『光る君へ』に出てくる主上は5人だけ。
円融。花山。一条。三条。後一条。
わかりやすい。
「藤原」さんの多さに比べて、すっきりしている。
藤原さんは多い。4話で出ていた藤原さんは20人いた。
道長(柄本佑)、道隆(井浦新)、詮子(吉田羊)、道兼(玉置玲央)、惟規(高杉真宙)、実資(秋山竜次)、公任(町田啓太)、行成(渡辺大知)、斉信(金田哲)、義懐(高橋光臣)、顕光(宮川一朗太)、為光(阪田マサノブ)、忯子(井上咲楽)、穆子(石野真子)、頼忠(橋爪淳)、文範(栗田芳宏)、惟成(吉田亮)、宣孝(佐々木蔵之介)、為時(岸谷五朗)、兼家(段田安則)。(出演者テロップ順)
多い。憶えられない。
この時代は実の子への譲位が少ない
おそらく今年の大河ドラマは、天子さまを中心に見ていったほうがわかりやすいとおもう。
円融から花山へ譲位があったが、これは父から子ではない。
円融の兄の子が花山であり、つまり甥への譲位となる。
そしてその次は、花山から円融の子へ、つまり従兄弟への譲位となる。
この時代の皇位継承はすこしややこしい。
62代村上天皇からの流れ
もとは村上天皇から発している。
62代天皇。「天暦の治」で知られる名君である。
22年間天皇の座にあり、在位のまま崩御された。
そして村上天皇の子・冷泉天皇が63代に就く。
次の64代も村上天皇の子・円融天皇である。
つまり63代から64代は兄から弟への譲位であった。
この「兄・冷泉」の皇統と、「弟・円融」の皇統ができて、そのまま交互に皇位に就くことになった。
バックアップする藤原氏の思惑によるもののようだ。
兄の冷泉帝と弟の円融帝の皇統
それぞれを並べるとこうなる。
兄・冷泉皇統
62村上−(子)63冷泉−(子)65花山−(弟)67三条
弟・円融皇統
62村上−(子)64円融−(子)66一条−(子)68後一条
長く帝位にあった帝と、短かった帝が交互に出る。
交互に在位の長い天皇と短い天皇が出る
それぞれの在位を見るとこうなる。
おおもとの村上天皇から並べてみる。右端は大河で演じる役者。
62代 村上天皇 在位22年(946年−967年)
63代 冷泉天皇 在位 3年(967年−969年)
64代 円融天皇 在位16年(969年−984年)坂東巳之助
65代 花山天皇 在位 3年(984年−986年)本郷奏多
66代 一条天皇 在位26年(986年−1011年)塩野瑛久
67代 三条天皇 在位 6年(1011年−1016年)木村達成
68代 後一条天皇 在位21年(1016年−1036年)
(在位年数はすべて足かけ年数)
63代の冷泉天皇も奇矯な振る舞いの人であった
ドラマには出て来なかったが、冷泉天皇も奇矯な振る舞いの目立つ人物だったという。
本多奏太の花山天皇の父であり、気質が似ていたらしい。父子二代にわたって奇矯なる帝だったとして伝わっている。
在位3年にして退位となった。
安和の変とよばれる政変との関係もあるが、3年でやめさせられた、と見ていいだろう。
64代の円融天皇は兼家によってやめさせられたのか
64代円融天皇は『光る君へ』にあったように、藤原兼家(段田安則)の強い思惑によって(死なない程度に毒を飲ませるという強引な手法によって)退位させられている。(ちなみに毒の部分は大河ドラマのオリジナルである)
円融帝は初めは藤原氏(実頼から伊尹)の強力なバックアップがあったので地位も安定しおり、そのため在位16年と長かった。
ただ藤原氏内での勢力争いの影響もあって、自分の子(のちの一条天皇)を次の皇太子に据えることを条件に退位した。
ほんとうに不本意な譲位であったのかどうかは微妙なところである。
65代花山天皇は騙し討ちによって譲位
そしてドラマでは65代花山天皇の御代となった。
けれど、これは短い。
即位が永観2年(984)、退位は寛和2年(986)で、在位わずか3年である。
花山天皇は、大きな後ろ立てがなかった。
そこを兼家(段田安則)につけこまれる。
陰謀によって退位させられる花山天皇
寛和2年(986)、花山天皇は、愛する女御の忯子(井上咲楽)の死をきっかけに、藤原道兼(玉置玲央)にそそのかされて山科で出家する。
そのまま譲位となってしまう。
いわば騙し討ちにあって、天皇を譲った形になった。
寛和の変とよばれる事件だ。
わかりやすい藤原氏による陰謀である。
首謀者が兼家(段田安則)、実行犯が道兼(玉置玲央)となる。道隆(井浦新)ももちろん加担しているが、道長(柄本佑)は微妙なところだ(大河ドラマでは無関係のポジションに置かれそうである)
ダーティ部分をすべて道兼に請け負わせる無茶
道兼(玉置玲央)は『光る君へ』では「紫式部の母を刺殺した」というとんでもない罪を着せられているが(事実無根である。なんで誰も文句を言わないんだろう)、このポイントだけはこの大河は許せないのだが、でも、彼を悪者にしたてたのは、この「花山天皇を騙して退位させた」寛和の変におけるわかりやすい「悪行」によるものだろう。
退位して欲しい天皇を、わかりやすく罠に嵌めて、譲位させた。
66代一条天皇の時代がこのドラマの中心
そして即位したのが66代一条天皇(塩野瑛久)となる。
これは藤原兼家らにとっての意中の帝であった。
即位が寛和2年(986)、在位は長く、そのまま死ぬまで帝位にあった。
寛弘8年(1011)に病を得て、具合が悪くなり譲位、譲位した9日後に崩御されている。ほぼ亡くなるまで帝位にあったと言っていい。
道長が一挙に貴族社会トップに昇りつめる時期の帝であり、また、紫式部が『源氏物語』を書いたときの帝である。(そもそも一条天皇に読ませようとして『源氏物語』は書かれたのだ、という説がある)
67代三条天皇は道長と仲が良くなかった
その次、67代の三条天皇は、一条帝の従兄弟でしかも年上、すでに36歳で、当時としてはかなり年とってからの即位となる。
この、大人である三十代の三条帝は、道長とそりが合わなかった。
しかも眼病を患い、ものがしっかり見えずに政務に差し支えるようになった。
それでも帝位にいつづけようとするのを道長を始めとした重臣が説き伏せて辞めさせたという退位であった。
在位6年、長和5年(1016)で譲位した。
68代の後一条天皇をもって王朝の物語は終わる
そして次がこのドラマ最後の天皇、68代、後一条天皇である。
道長の子である彰子(見上愛)と一条天皇の子である。つまり道長の孫。
長和5年(1016)に即位したときは9歳。当然のごとく、道長が摂政に就く。
この孫帝に、自分の娘(威子)を入内させたとき、道長が詠んだ歌が「もちづきの欠けたることもなしとおもえば」のあの歌である。
娘と孫を結婚させて喜んでいたわけなので、なんだかいろいろ問題が多い。
後一条天皇はそのまま長元2年(1036)まで21年間皇位にあり、在位のまま崩御する。道長はそれより早く万寿4年(1028)になくなる。
だから後一条のあとの天皇はドラマでは扱わないはずだ。
後一条の次の69代後三条(後一条の弟)は「院政」の端緒となり(諸説あり)、摂関政治と王朝文化は変質してゆく。
花山帝の動向に影響を受ける紫式部一家
かのように『光る君へ』の時代の天皇は、藤原氏とうまくいけば長い期間の帝位にあり、気に入られなかったら数年で追い出されてしまう(ほんとはいろいろと複雑な事情がからんでいるのだが、ざっくり言えばそうなる)
短い帝と長い帝が交互に出てくることを知ってドラマを見ているのがいいかもしれない。
花山帝(本郷奏多)は短いほうで、紫式部の父(為時/岸谷五朗)はこのあとその影響をもろにかぶってしまう。
「弟」の系統が強かったこの時代
冷泉帝の皇統と、円融帝の皇統では、弟の円融皇統が続くことになった。
藤原氏でも、兄の伊尹、兼通をさしおいて、弟の兼家が摂関家の中心となる。
またその兼家の子も、いちおう道隆、道兼の順に関白になるが、どちらもそこそこで死んで、末弟の道長の系統が中心として残った。
このころは、弟の血筋が勝ちぬくことも多かった、と、あらためておもう。
弟の継承がふつうであった時代は「もう自分の下に弟はいない」という人物が有利であったことと、やはり若死にが多く、たとえ数年であっても若いほうが有利だったということが言えるのだろう。