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【その後の鎌倉殿の13人】伊賀の方の親族が巡らせた驚愕の陰謀の中身とは

濱田浩一郎歴史家・作家

貞応3年(1224)6月、北条義時の死により、風雲急を告げる鎌倉。義時の嫡男・北条泰時は(異母弟たちを討つために鎌倉に舞い戻ってきた)との噂が立っていたのです。そして、義時の後妻・伊賀局は、義時の子・北条政村を産んでいましたが、伊賀局の親族を中心として、陰謀が巡らされていたと言われます。

『吾妻鏡』(鎌倉時代後期に編纂された歴史書)によると、その陰謀とは、北条政村を執権に就けようというものでした。更には、義時と伊賀局との間に生まれた娘が嫁いでいる一条実雅を将軍にという野心もあったと言われます。一条実雅とは、鎌倉時代初期の公卿であり、一条能保の3男でした(能保は頼朝の同母妹を妻とした)。

将軍・一条実雅、執権・北条政村ーそしてそれを背後で操るのは、伊賀局の兄弟とされる伊賀光宗。そうした陰謀が進行していたと『吾妻鏡』には書かれています。泰時の周辺にいる人々も、その「陰謀」を聞きつけて、泰時に報告してくれたようです。

ところが、泰時は「それは、本当のことではあるまい」と相手にしなかったとのこと。更には「要人」の他は、自分のところに参上してはならんと命じたので、泰時の周りには、平盛綱・尾藤景綱・関実忠・安東光成・万年右馬允・南条時員らしかいなかったようです。徒らに、政村方を刺激するのを避けたのでしょうか。

歴史家・作家

1983年生まれ、兵庫県相生市出身。皇學館大学文学部卒業、皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師を歴任。『播磨赤松一族』(KADOKAWA)、『北条義時』『仇討ちはいかに禁止されたか?』(星海社)、『家康クライシスー天下人の危機回避術ー』(ワニブックス)ほか著書多数

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