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細川忠興は家を守るため、妻のガラシャ、子の忠隆、興秋を見殺しにした

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
細川忠興・細川ガラシャ像。(写真:イメージマート)

 今でも組織を守るため、「トカゲの尻尾切り」を行うことがあるだろう。戦国大名の細川忠興は家を守るため、あえて妻子を見殺しにしたといわれている。その実例を取り上げることにしよう。

 永禄6年(1563)、細川忠興は幽斎の子として誕生した。慶長5年(1600)の関ヶ原合戦前には、徳川家康に従って、東軍の陣営に属した。そこには、忠興の生き残り戦略があった。

 同年7月17日、石田三成ら西軍の諸将が決起すると、大坂玉造の細川邸にいた忠興の妻・ガラシャを人質にしようとした。あらかじめ忠興は、自分がいないときに妻の名誉に危険なことがあったら、妻を殺害せよと家臣に命じていたという。

 ガラシャは人質になることを拒んだが、キリスト教の教えで自害することはできなかった。そこで、家臣の小笠原秀清がガラシャの胸を長刀で突いて殺したのである。

 しかし、忠興の長男・忠隆の妻(前田利家の娘)は、大坂玉造の細川邸から逃亡した。これを知った忠興は、忠隆に妻と離縁して前田家に追い払うよう迫ったのである。

 忠隆は、父の命令を拒否した。関ヶ原合戦後、忠興は豊前中津に約39万石を与えられたが、忠隆が同行することを許さず勘当した。慶長9年(1604)、忠隆は忠興から廃嫡とされたのである。

 忠隆は剃髪して長岡休無と号し、妻子とともに京都で生活した。のちに忠興と和解したが、正保3年(1646)に京都で病没したのである。

 嫡男の忠隆が廃嫡されたので、細川家の家督は次男の興秋が継ぐものと思われた。慶長6年(1601)、興秋は小倉城代を任されたのだから、誰もが興秋が細川家の家督を継ぐと思ったに違いない。

 慶長10年(1605)、忠興は江戸で徳川家の人質になっていた忠利に細川家の家督を継がせることにした。忠興が忠利を家督後継者に選んだのは、忠利が徳川秀忠に気に入られたからだといわれている(諸説あり)。これにより、興秋は細川家を出奔したのである。

 興秋も出家して京都で暮らし、大坂の陣が勃発すると豊臣方に与した。豊臣家の滅亡後、興秋は父から自害を命じられたのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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