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本能寺の変で難を逃れ、生き長らえた3人の戦国武将とは?

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
本能寺跡。(写真:イメージマート)

 災難に遭った際、運悪く亡くなってしまうこともあるが、運よく生き長らえることもある。それは、天正10年(1582)に勃発した本能寺の変も同じことで、運よく難を逃れた戦国武将がいたので、そのうち3人を紹介することにしよう。

◎織田長益(1547~1622)

 織田長益(有楽斎)は信秀の子で、信長の弟でもある。長益は甥の信忠(信長の子)に従って妙覚寺に入り、本能寺の変が勃発すると、二条御新造に籠ったが、信忠は自害した。長益も自害しようとしたが、敵兵がいないので犬死はご免だと考え直し、逃亡したという(『武家事紀』)。

 しかも、長益は信忠に自害を勧めたのに、自分は逃げたので嘲笑の対象になった(『義残後覚』)。当時の人々は、脱出した長益の行いを非難した(『当代記』)。長益が逃げたのは事実としても、評価は二次史料に書かれたことなので、一考を要しよう。

◎水野忠重(1541~1600)

 水野忠重は刈谷城(愛知県刈谷市)主で、姉の於大の方は徳川家康の母である。本能寺の変の直前、忠重は織田信忠に従って上洛し、妙覚寺に滞在していた。その後、明智光秀が本能寺で織田信長を急襲すると、忠重は信忠とともに二条御新造に籠ったという。

 信忠は自害して果てたが、忠重は二条御新造を脱出し、京都で潜伏生活を送ったあと、三河国刈谷に命からがら逃げ帰ったという。変後、忠重は武田氏旧領をめぐる戦いに出陣した。忠重は徳川家康のもとで活躍し、亡くなったのは慶長5年(1600)のことである。

◎前田玄以(1539~1602)

 前田玄以の出自は不明な点が多いが、織田信長の命によって、嫡男の信忠の配下に加わっていた。本能寺の変の直前、玄以は信忠に従って上洛し、妙覚寺に滞在していた。明智光秀の軍勢が二条御新造に攻め込むと、信忠は自害して果てた。

 死の直前の信忠は、玄以に妙覚寺から脱出し、子の三法師を守るよう命じたという。京都を脱出した玄以は岐阜城(岐阜市)に向かい、三法師を清洲城(愛知県清須市)に移した。変後、玄以は信雄(信長の次男)に仕え、京都所司代になったのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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