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関ヶ原合戦後、御家騒動が勃発し、困り果てていた小早川秀秋の事情とは?

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
岡山城。(写真:イメージマート)

 せっかく会社を経営しても、部下を統率するのに困っている経営者は多いだろう。関ヶ原合戦後、小早川秀秋は家中が崩壊し、すっかり困り果てていたので、その事情を探ることにしよう。

 関ヶ原合戦において、小早川秀秋は合戦の前日に西軍を裏切り、東軍に与して戦った。秀秋の裏切りにより東軍は勝利し、秀秋には戦後に備前と美作が与えられた。秀秋が初めて備前に下向し、岡山城に入ったのは慶長6年(1601)のことである。

 ところが、秀秋は岡山城に入ると、重臣の杉原重政を殺害したのである。この話は『備前軍記』という軍記物語に書かれたもので、重政が殺された理由までは、詳しく記されていない。

 重政は、秀秋をよく支えた重臣だった。その後、稲葉通政、松野重元、日野景幸といった面々も、次々と小早川家中を出奔したのである。

 同じ頃、秀秋は伊岐氏、林氏といった側近の家臣を登用し、彼らに知行を加増したり、蔵入地を預けたり、また同心鉄砲衆の知行を宛がったり、などをしていた。重政の殺害は、このことと関係があるように思える。

 一般的に、大名が領土を拡大する過程において、家臣団の充実に迫られるのは当然のことである。古参の家臣だけでは人材が不足するので、新参の家臣を迎え入れることになる。

 また、秀秋のような若い当主にとって、古参の家臣は煙たい存在だったという可能性もある。むしろ、秀秋の意向を尊重する新参の家臣のほうが、自分にとって都合が良かったということが考えられる。

 小早川家の家中騒動の真相は不明であるが、当時の大名家の家中騒動の例から推測すると、新旧家臣団の対立の結果、秀秋が古参の家臣を殺害もしくは追放することを決断したということになろう。

 家中騒動の翌年、秀秋は亡くなった。享年21。一説によると、秀秋は関ヶ原合戦で自害に追い込んだ大谷吉継の亡霊に悩まされ、狂死したというが、それは誤りである。当時のたしかな記録によると、秀秋は重度のアルコール中毒だったので、それが死因と考えられる。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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