朝廷がビックリした!藤原伊周・隆家兄弟による藤原道長暗殺未遂事件とは
大河ドラマ「光る君」では、罪を許された藤原伊周がたびたび登場するようになった。ところで、藤原伊周・隆家兄弟による藤原道長暗殺未遂事件があったので、紹介することにしよう。
藤原伊周は、道隆(道長の兄)の子として誕生した。若くして内大臣に昇進し、その権勢はおじの道長さえも上回るものだった。しかし、道隆・道兼兄弟が相次いで亡くなると、その後継者となったのは、伊周ではなく道長だったのである。
伊周と道長の関係は良くなかったが、長徳2年(996)に勃発した長徳の変がすべてを変えた。伊周・隆家兄弟の従者が花山法皇に矢を射たので(衣の袖を射抜いた)、これが大問題になった。結局、伊周・隆家兄弟は罪を問われ、左遷されたのである。
のちに二人は罪を許されたが、往時のような威勢はすっかりなくなり、道長の後塵を拝することになったのである。長保2年(1000)には、一条天皇の中宮だった妹の定子が亡くなり、これは伊周・隆家兄弟にとって大きな打撃となった。
同年、道長は一条天皇に伊周の復位を奏上したが、これは実現しなかった。しかし、のちに伊周は従二位に叙され、さらに参内も許されたのだから、道長との関係は改善されたと考えてよいだろう。
伊周・隆家兄弟には、定子が産んだ敦康親王という切り札があった。敦康親王が天皇になれば、往時の威勢を取り戻す可能性があった。しかし、一条天皇の中宮の彰子(道長の娘)が敦成親王を産んだので、その可能性は消滅したのである。
寛弘4年(1007)、伊周・隆家兄弟が伊勢国に本拠を置く武士の平致頼を巻き込んで、道長の暗殺を計画しているとの噂が流れた。道長は大和国の金峯山寺(奈良県吉野町)へ参詣することになっていたので、その道中で襲撃しようとしたのだろうか。
その後、道長に不穏な状況を知らせるため、勅使として頭中将源頼定が派遣された。しかし、道長は最終的に暗殺されることなく、何事もなく帰京したのである。翌年、伊周は大臣に准ぜられたので、道長との間に表立った確執はなかったと考えられる。