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戦場で戦ったというエピソードがある3人の戦国女性とは?

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
(提供:アフロ)

 現代では女性兵士が戦場に行くことは、決して珍しくない。戦国時代においても、戦場で戦ったというエピソードがある女性がいるので、そのうち3人を紹介することにしよう。

◎甲斐姫(1572?~?)

 甲斐姫は、忍城(埼玉県行田市)主の成田氏長の娘として誕生した。天正18年(1590)に豊臣秀吉による小田原征伐が始まると、成田氏は忍城に籠って抵抗した。忍城を水攻めにしたのは、石田三成だったが、なかなか落とすことができなかった。

 豊臣方の浅野長政が三成の応援に駆け付けると、甲斐姫は名刀「浪切」を持って戦い、敵兵を多数討ったといわれている。しかし、北条氏が滅亡すると、成田氏は降伏して秀吉の軍門に降った。戦後、甲斐姫は秀吉の側室になったというが、定かではない。

◎富田信高の妻(生没年不詳)

 富田信高の妻は、宇喜多忠家の娘といわれている。慶長5年(1600)の関ヶ原合戦に際して、信高は東軍に与した。すると、長宗我部盛親らが約3万の軍勢を率い、安濃津城を攻撃した。信高はよく持ちこたえたが、しょせんは多勢に無勢で窮地に陥った。

 信高が死を覚悟した時、一人の若武者が颯爽と姿をあらわし、片鎌の手槍であっという間に敵兵を切り伏せた。信高が城内に引き返し、若武者を見ると自分の妻だった。妻は信高が討ち死にしたと聞き、同じ場所で死にたいと出陣していたのである。

◎妙林尼(生没年不詳)

 妙林尼は、吉岡鑑興(大友氏の家臣)の妻である(鑑興は耳川の戦いで島津氏に敗れ、戦死)。天正14年(1586)、かねて大友氏と敵対していた島津氏は、大友方の吉岡氏の居城の鶴崎城(大分市)を攻めてきた。妙林尼は、島津氏の軍勢を16回にわたり防いだという。

 しかし、島津氏が城兵の命を保証したので、妙林尼は降伏して開城すると、島津軍をもてなしたという。翌年、豊臣秀吉が島津征伐にやってくると、妙林尼は島津軍と交流したから大友方には戻れないので、自分も連れて行って欲しいと懇願した。妙林尼が島津軍をもてなしたのも、自分も連れて行って欲しいと言ったのも作戦だった。

 妙林尼は先に出発した島津軍を見送ると、あとで合流すると述べた。すると、妙林尼は家臣に命じ、乙津川付近で島津氏に攻撃を仕掛け、多数の敵兵を討ち取った。こうして妙林尼は島津氏を欺いて勝利したが、その後の消息は不明である。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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