『らんまん』田邊教授(要潤)の死への大きな疑問 フィクションと真実のはざまにあるもの
102話で田邊教授溺死の衝撃
朝ドラ『らんまん』の田邊教授(要潤)は溺死した。
102話、舞台は明治26年8月のことである。
●田邊博士游泳中に溺死
元帝国理科大学教頭兼教授理学博士田邊彰久氏は、鎌倉海岸に於て游泳中誤って溺死を遂げたり今其模様を記さんに氏は過日家族と共に紅塵萬丈の都下……去りて鎌倉に避暑し坂の下なる山本某の控家……
そういう新聞記事を見かけて、主人公万太郎(神木隆之介)らはその死を知る。
「葬式は身内だけ、弔問も一切お断りします」とのことである。
大学の助手である波多野(前原滉)がそう伝えていた。
みんな武田信玄になってしまった現代
確かに近年は、葬式は身内だけで済ます傾向が強い。
特に令和になってから、コロナ以降、その流れに拍車が掛かっている。
そもそも、死んだことを知らせようとしない。
みんな武田信玄になったみたいに「我が死を三年隠せ」と言い残しているかのようだ。
昔を知っている世代から見ればとても異様な事態なのだが、いまは世の中がそうなってしまっている。
死んだことを恥じる時代
言ってしまえば、死んだことを恥じているような傾向にある。
そういう意識が強くなっているのだろう。
「生きていること」に強く拘泥している。
「個」の意識があまりに強いからだ。
死を恥じるのは、でも生きている側の感覚でしかない。
「生きていても、いつか死ぬのが当たり前」という意識があまりにもなさすぎる。
落語のセリフを使って人の死を知らせる
かつて、五十年ほど昔は、少なくとも私が住んでいたあたりでは(京都の東山区)、そういうことはなかった。
人が死んだら、おもいつくかぎり、知らせてまわれ、とそう教えられていた。
いや、そういう言葉を聞いたわけではない。
ただ、身内が死ぬと、若い私は会ったこともない遠い親戚などにも次々と電話をかけさせられた。
少年にとって、知らぬ大人に身内の死を知らせるのはなかなかしんどい作業だったのだけれど、でもやらされた。
私は落語で覚えた「とうとう、ようなかった(良くなかった)んです」という言葉だけを頼りに、落語以外では聞いたことのないセリフだが、それを電話で伝えつづけた。そういうと相手方は「ああ」と納得してくれるのでこれでいいのだとわかって、まったく知らない縁戚に伝えつづけた。1970年代のことである。
「人が死んだら、とにかく全力で知らせてまわること」というのが少年だった私が知った世の習いであった。
見えざる力で執り行われる「葬式」
いまはちがう。
そんなことはしない。
1970年代の京都ではふつうにやっていたことを、2020年代の東京ではやらない。
だから、ときどきインターネットで知り合いの死を知ったりする。それはそれで衝撃が深い。
ただ昭和の京都でやっていたことを、『らんまん』の舞台、明治の東京でやっていない、とは考えにくい。
はたして「身内だけで葬式を済ませて、弔問も受け付けない」ということが可能なのだろうか。
まあ、無理だろう。
明治時代の葬礼は、たぶんもっと「見えざる力」で執り行われていたはずだ。
冠婚葬祭の「冠婚」と「葬祭」の違い
古い時代、とりあえず昭和半ばすぎのころまで、そのころまでの葬式は、すごく多くの近所の人が動きまわるものであった。
冠婚葬祭の「葬」と「祭」が同じ範疇にある。
「冠」と「婚」は、生きてる人のことだから厳かにおこなわれる。
葬と祭は、どちらも亡くなった人のことなので、しめやかではあるが、なるべく多くの人を巻き込もうとする。そういうものだった。
そういえば水曜日のドラマ『ばらかもん』で地方の葬礼が映し出されていたが、やはり昔ふうの葬礼は、近所の人がみんな手伝うし、基本、派手である。
葬式の準備で家のなかが往来自由となった
そもそもお葬式は「近所の人が次々と手伝いにくるもの」であった。
亡くなったら、すぐさまいろんな人が家に入ってきて、葬式の準備のときから家のなかが「往来自由」になってしまった。
まるで外の通路と変わらないなとおもった。
いまだと信じられないというところだろう。異国の異世界のような風景に見えるとはおもうが、でも、実際にそうだった。
お葬式でどういうポジションを取るのか
落語や、昔の映画やドラマには、お葬式の手伝いに行って、どういうポジションを取るか(どういう仕事を割り振られるか)にやきもきする、というシーンがある。
葬式は、業者も入るが、でも近郷近在の知り合いが次々と手伝いにやってきて、それで進めていくもの、だったのである。
業者任せ、というものではなかった。業者は霊柩車などを手配してくれる人たち、というようなポジションだった。
都市と田舎とでは違っただろうが、昭和中ごろまではそういう風景は、色濃く残っていたはずだ。
そういえば「土葬」がふつうだったのも昭和中ごろまでで、そことも深く関係しているのだろう。湯灌さえも、身内でやっていて、それは三遊亭円朝「真景累ヶ淵」では後半展開のひとつのポイントになっている。
葬式は、みなで手分けしてやるものであった。業者はその一部を受け持つだけだった。
暴力的ともいえる葬式の始まり
人の世がつないできた型があって、人が死ぬと、そのシステムが自然と起動するようになっていた。よくわからないが、勝手に動き出す、という感じであった。
それは身内だからと言って止められるものではない。
気候の変転のようなもので、見ようによっては暴力的であり、近所に住む人たちと親戚がどんどんやってきて、有無をいわさず執り行うのだ。
それが前近代から続く葬式の型だったのだ。
都市化していく葬式
私も平成半ばころまでは、葬式にいくと、何かお手伝いできることがあれば、と言っていたが、でも21世紀に入ってからそれを言うと、怪訝な顔をされるようになったので、言わなくなった。
葬式がシステマチックになっていったからだ。
遺族は悲しむだけ、あとは業者がすべてやってくれる。
葬式も都市化して、貪欲な高度資本主義経済に呑み込まれていったのだ。
その風景しか知らない人は、明治20年代の葬式はたぶん、一瞬たりとも想像できないのだろう。
身内だけの葬式にしたいという令和の思考
『らんまん』での田邊元教授は溺死した。
高名な教授だけれど、事故死である。
その死を恥じて、身内だけの葬式にしたい、と考えるのは、でもそれは令和の思考でしかない。
明治の社会がそんな勝手を許してくれるとはおもえない。
「明治26年の溺死」はフィクション
でも違ってるよな、と文句を言うのも、じつはあまり意味はない。
「明治26年に元教授が溺死」というのはフィクションだからだ。
田邊教授のモデルであった矢田部良吉が溺死したのは明治32年である。
大学を免官になるが、そのあと東京高等師範の校長となっている。
鎌倉沖で亡くなったのは明治32年。
6年違っている。6年違うと、ずいぶん違う。
二七戦役(日清戦争)のあとと前では、ずいぶん世間が違っていたはずだ。
教授の人生をドラマチックに変えた『らんまん』
『らんまん』では、大学教授の人生を、ちょっとドラマチックに扱いすぎである。
失意のなか溺死したという人生を描いたが、実際はそうではない。
帝大教授罷免から、溺死までもっと時間が空いていた。
妻の一存で、葬式を身内で済ますことも、まずできない。
うわっと人が押しよせて、神輿をかつぐようにみんなで、よいしょよいしょと、葬礼が始まって、誰も止められない。
御一新前から江戸に住んでいた人たちをなめてはいけない。
令和から見る明治のむずかしさ
でも令和の頭では、そういう風景はおもいうかばないのであろう。
でも「人が死んだら声をかぎりに触れ回る」「人が死んだら何をやっていてもすぐに駆けつけて、何か手伝わせてもらおうと必死になる」というのは20世紀にはふつうの風景だったということは、いちおう覚えておいてもらいたい。
しかも、このドラマの舞台はまだ19世紀である。
人が死んで知り合いが集まらないわけがない。
死が当たり前だったからこそ、みんなすぐに集まった。
「スマホを手にしてない状態の人たち」はすごいスピードで集まったのだ。
いまから見れば昔が変である。
でも昔を知ってる者からすれば、いまもかなり変わった世の中である、ということだ。