【鎌倉殿の13人】承久の乱の首謀者を次々に斬首させた北条泰時の後悔の訳
承久の乱の首謀者の公卿(葉室光親・中御門宗行・源有雅)は、六波羅に連行されました。そして、武田信光・小山朝長・小笠原長清ら諸将に預けられます(1221年6月25日)。首謀者は「預かり囚人」となったのです。
同年7月1日には、承久の乱の「張本」人らを「断罪」せよとの宣下(天皇の命令を伝達する文書公布)がありました。ちなみに、乱を主導した後鳥羽上皇は、隠岐島に配流となります。後鳥羽の皇子である土御門上皇や順徳上皇も、遠国に配流となります。
順徳上皇の皇子・仲恭天皇は廃位となり、代って、後堀河天皇が即位されます。後堀河の父は、守貞親王。親王は高倉上皇の第2皇子であり、その異母兄は壇ノ浦合戦で海中に没した安徳天皇です。
さて、乱の張本についての宣下もあったということで、北条泰時は、首謀者を鎌倉に連行せよと命じます(7月1日)。一条信能という公卿は、武士・遠山景朝によって連行されますが、美濃国遠山荘において、首を刎ねられました(7月5日)。
鎌倉からは、首謀者公卿は、洛中で斬罪せよとの命令がありましたが「城外」の方が良いのではという泰時の考えにより、京外で斬首されることになったのです。
公卿・葉室光親は、武田信光により連行され、駿河国にて、殺害されます(7月12日)。光親は、後鳥羽上皇の挙兵計画を何度も諫言したようですが、聞き入れられず、ついには君命ということで、北条義時「追討の宣旨」を書いてしまいます。
光親が、上皇を諌めた書状は、院御所に「数十通」も残っていたようです。そのことを後で知った北条泰時は、葉室光親を斬刑にしたことを後悔したといいます。