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徳川家康がケチだったという話も、後世に捏造された可能性が高い

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
徳川家康が好んで食べたという麦飯。(写真:イメージマート)

 今年の大河ドラマ「どうする家康」は、新しい徳川家康像が打ち出されたが、家康が倹約家だったことにはあまり触れられていなかった。家康は大変な倹約家だったといわれているが、その点について考えてみよう。

 戦国大名が倹約家だったという話は、実にたくさん残っている。たとえば、大河ドラマの主人公にもなった黒田官兵衛は、蓄財に余念がなかったという。しかし、それはただのケチであるということが理由ではなかった。

 慶長5年(1600)に関ヶ原合戦が勃発すると、官兵衛は蓄えていた金・銀を惜しみなく合戦に使ったという。つまり、官兵衛が倹約していたのは、万が一のときの備えだったといえよう。

 実は、家康の倹約に関するエピソードも実に豊富である。それらは、『名将言行録』などの後世に成った書物に書かれている。たとえば、家康は麦飯を好み、三河名物の八丁味噌をおかずにしていたという。質素な食事を好んでいたのだ。

 しかし、あまりに食事が質素だったので、見かねた家臣が白米の上に少し麦をのせて、家康に提供した。出された飯を見た家康は激怒し、「農民に苦労をさせているのに、自分だけが贅沢できるか」と家臣を怒鳴りつけたという(『正武将感状記』)。

 それだけではない。当時、人々の楽しみとして、たびたび相撲が行われた。ある日、家康の屋敷で相撲を取ろうとすると、家康は畳を裏返すように指示したという(『駿河土産』)。たしかに、相撲は畳に足を強く擦るのだから、傷んでしまう。家康はそれを危惧して、畳を裏返すように指示したのである。

 また、あるときは厩(馬小屋)が壊れたが、家康はすぐに修理を命じることがなく、壊れたままで放置したという。そのほうが、馬が丈夫に育つとまで言ったと伝わっている(『明良洪範』)。また、自身の屋敷もとても小さく、家臣が大きな屋敷を建てないように、広い敷地を与えなかったという(『前橋旧聞覚書』など)。

 家康の倹約の逸話を挙げるとキリがないが、もはや倹約というよりも、ケチというレベルである。しかし、いずれのエピソードもたしかな史料に書かれたのではなく、後世に成った史料に書かれた点に注意すべきだろう。

 江戸時代になると経済が発展し、人々の生活は豊かになった。しかし、現代社会と同じことで、たびたび経済的な不況に見舞われることになった。その際には、幕府から倹約令が発布されたのである。人々は贅沢を禁止され、質素倹約を求められた。それは、もちろん武士も例外がなく、同じ扱いだった。

 家康も含めて、名将が倹約をした逸話が多いのは、まさしくその点にある。人々に質素倹約を押し付けるだけでは、なかなか納得が得られなかった。

 そこで、名将も質素倹約を旨としたことを広めれば、人々も渋々ながら納得するという効果が期待されたのである。特に、武士は人の上に立つ存在だったので、非常に効果が見込まれた。

 つまり、家康をはじめとする名将が、本当に質素倹約に励んでいたのかはわからない。理由は、たしかな史料に書かれているわけではないからだ。

 しかし、そうした話を創作し、人々に広めることで、質素倹約を期待できた。家康の倹約、いやケチぶりは美談として語り継がれ、ますます尊敬の度合いを高めたのである。

主要参考文献

渡邊大門『誤解だらけの徳川家康』(幻冬舎新書、2022年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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