官邸記者クラブが菅長官に屈する理由、東京新聞・望月記者いじめ2年半―分断越えるため何が必要か
異例の状況が2年半にわたって続いている。政権を厳しく追及することで知られる東京新聞の望月衣塑子記者が、内閣官房長官の会見で質問しようと手をあげても、必ず最後に回され、質問できたとしても2問までという彼女限定の「ルール」が適用されているのだ*1。先月22日から今月11日までは、望月記者が全く質問できないことが続いた。こうした質問制限に、官邸記者クラブである内閣記者会が関与している、或いは黙認しているという疑惑が持ち上がっている。その背景には「政治家と接近して情報をもらう」という日本の政治報道の取材スタイルが故に、政権側のコントロールを受けやすいという問題がある。メディア関係者らに日本の政治報道の弱点をきいた。
◯望月記者への質問制限に記者会が関与?
「(官房長官の)番記者たちが『望月が手を挙げても指させない』と内々で決めたとの情報が届いた」―先月29日、東京新聞の望月衣塑子記者が自身のツイッターに投稿。その後、「『内々で決めた』との情報だったが、実際は、私の抗議以降菅官房長官側が激怒し、番記者が指名を促しづらい状況に追い込まれているようだ」と若干軌道修正したものの、彼女に対する質問制限に対し、内閣記者会が少なくとも黙認していることを示唆した*2。
望月記者の投稿での「私の抗議以降」「菅官房長官側が激怒」とは、先月22日、会見の中で、望月記者が「不当な扱いを受けている」と発言したこと。同日から菅義偉官房長官がオフコン(非公式なオフレコ取材対応)を拒否*3。匿名の情報提供者によれば、内閣記者会の番記者達は、望月記者の訴えに耳を傾けるどころか、菅官房長官の機嫌を損ねた望月記者を「厄介者」とみなし、会見の幹事社や東京新聞への不満が高まったのだという。望月記者のツイートには、そうした背景があるようだ。望月記者は、この22日以降、会見で手を挙げても指されず1問も質問できなくなることが続いた。
ツイッターでの投稿が騒動となったためか、今月11日から、望月記者は、ようやくまた質問できるようになったものの、 「指名が必ず最後に回され、質問できたとしても2問まで」という、彼女に対する明らかに差別的な扱いは続いている。また、内閣記者会加盟のある新聞社は、筆者の取材に対し「(望月記者が求める状況の改善について)我が社としては改善を求めているが、記者会としては意見をまとめられていない」と白状した。つまり、望月記者の「告発」はそれなりに根拠のあるものだと観るべきだろう。
◯菅官房長官に屈した内閣記者会
「会見では、記者は自由に質問できる」という建前とは裏腹に、望月記者への質問制限に対し、会見の主催者であるはずの内閣記者会は、何故、菅官房長官側に強く出られないのか。朝日新聞の政治部記者で新聞労連の委員長を務める南彰氏は「取材方法としてオフコンを重視しすぎている日本の政治報道の文化があるのでは」と指摘する。
「日本のメディアでは、政治部記者、特に政府高官に張り付いて取材する番記者の役割は、会見で質問することだけではなく、むしろ、政府高官が宿舎に帰るところ等の非公式な場で、会見では語らない本音や政府内の動きを聞くことだとされています。官邸に集まる情報を握り、安倍首相よりも思想・信条に左右されず記者に対応している菅官房長官は、番記者達から重宝がられているのです」(南委員長)。
だが、政治家に接近し情報をもらうというオフコンを重視し過ぎることは、記者達の立場を弱くすることにもなる。
「2017年8月に、それまで原則として記者側の質問が続く限り打ち切られなかった官房長官会見を、『公務』を口実に打ち切ることを、内閣記者会は受け入れてしまった。それは、望月記者の厳しい追及に追い詰められた菅官房長官がオフコンを拒否するようになり、番記者達も苦しい立場に追いやられたからです」(南委員長)。
「公務」を口実にした会見の打ち切りこそ、望月記者への質問制限として菅官房長官が活用してきたものであるが、それにとどまらず、政権側に都合の悪い質問を避けるために使われてきている。「桜を見る会」の問題が国会で追及されるようになってから、官房長官会見はどんどん短くなり、10分以内で「公務があるので…」と菅官房長官が退散することも幾度もあった。だが、政府のスポークスマンである官房長官の会見も「最重要の公務の一つ」(南委員長)だ。オフコンを重視するあまり、メディアが視聴者や読者の「知る権利」を保障できていない、ということになってはいないか。
◯オフコン重視の弊害、権力に媚びるメディアに
記者達が政権に「忖度」するようになることも、オフコン重視の大きな弊害だ。政権側の機嫌を損ねれば情報が取れなくなることや、政権側との距離が近くなりすぎることから、権力を監視するというジャーナリズムの役割を果たせなくなる。国連「表現の自由」特別報告者のデビッド・ケイ氏が2016年に来日し、日本の報道関係者らに聞き取りした時、同氏が困惑したのは、「メディアの自主規制」を訴える声が多かったことだった。政権側に批判的な報道をしようとすると、同じメディア内の政治部が怒鳴り込んでくるということが多々あるのだ。
内閣官房長官会見に参加していた、あるメディア関係者は「記者達の感覚が麻痺している」と筆者に言う。「以前、私が会見で官房長官を追及しようとした際に、ある全国紙の記者が『望月さんみたいなことをしない方がいい』と言ってきたのです。それはおかしくないかと私が聞き返すと『望月さんが知る権利を行使すれば、記者会の知る権利が阻害される。官邸側が機嫌を損ね、取材に応じる機会が減っている』と、その記者は言ったのです」(同)。
このような権力とメディアの馴れ合いこそ、昨今のメディア不信の原因であろうが、それを反省するどころか、一層の馴れ合いが進んでいる傾向すらある。別のあるメディア関係者が筆者に語ったところによれば、内閣記者会の番記者達の中には、メディア不信について「君たちはよくやっている」と、菅官房長官に慰められている者達もいる有様だというのだ。
◯メディアが共闘できる素地を
メディアが本来の役割を果たすには、やはり政権との緊張感が必要だろう。前出の南委員長は「オフレコの取材で話した内容をひっくり返して、自身のSNSで否定する政治家も出てきている。オフコンなどのオフレコ取材を過度に重視する政治報道の在り方を見直すべきなのでしょう」と語る。「責任あるかたちで、公開の会見で、記者側が政権に説明を求めていくことが必要です」(同)。オフレコ取材では、人々に広く知らせるべき重要な事柄であっても報道することができないし、仮にできたとしても責任の所在が問われない。政権とメディアによる「目隠し」の裏で、重要なテーマが語られ、対応が決められていくことは、国民主権の民主主義という観点からすると極めて不健全だ。また、本稿で述べたようにメディアがオフレコ取材を過度に重視していることは、権力側によるメディアの分断にも利用されている。「物陰からのジャーナリズム」から、「開かれた場でのジャーナリズム」となることで、各メディアが「報道の自由」のため、共闘できる素地も生まれるのではないか*4。
米国では、トランプ大統領にホワイトハウス入館証を取り上げられたCNNのジム・アコスタ記者(動画参照)のために、多くのメディアが主義主張や会社の枠を越えて連帯を表明、トランプ政権も同記者への入館禁止措置を撤回した。また、この件ついては日本からも新聞労連が声明を発表した。筆者も全く同じ思いである。
有権者たる人々の「知る権利」を保障し、権力の暴走を監視するジャーナリズムが健全に機能することは、民主主義国家の根幹を支えるものだ。だからこそ、個々の記者のジャーナリズム精神に期待することのみならず、権力にコントロールされないよう、報道の在り方自体を変革することが必要なのだろう。
(了)
*1 本稿執筆中の2月14日、望月記者は2年半ぶりに会見の最後ではなく途中で指名された。筆者としても状況が今後改善していくか、推移を見守りたい。
*2 望月記者のツイートに対し、毎日新聞の秋山信一記者が「事実ではない」と否定する記事を配信。同記事の疑問点は、筆者ブログで解説している。
https://www.reishiva.net/entry/2020/02/11/202206
*3 オフコン拒否や望月記者への質問制限について、筆者は首相官邸の広報を通じ、菅官房長官に質問を送ったが、回答は得られなかった。
*4 新聞労連声明:オープンな首相記者会見を求める