【鎌倉殿の13人】北条時房の部下を大勢殺した南都の僧侶が許された意外な訳
承久3年(1221)10月12日。京都・六波羅からの使者が、鎌倉に到着しました。その使者は、大和国で起こった次のような出来事を、幕府の人々に伝えたのです。先ず、南都(大和国)に、承久の乱の「張本」(人)とも言うべき、藤原秀康・秀澄兄弟が潜伏しているとの風聞があったそうです。
そこで、北条時房(北条義時の弟。泰時の叔父)は、彼らを捕縛しようと、家人を南都に派遣したとのこと。ところが、家人が南都に着いてみると、兄弟は既に逃亡してしまっていました。
が、興福寺の衆徒らは、誰かが「夜討ち」(夜襲)に来たと誤解し、ついには、時房の家人と「合戦」という事態に発展。家人は、少人数でしたので、なす術なく、衆徒に「殺戮」されてしまいます(9月25日)。何とか、生き残った下部3人は、這々の体で、六波羅に馳せ戻り、今回の悲劇を伝えたのです。
時房は、泰時と相談し、翌日(9月26日)昼頃に、在京の武士や近国の勇士、数千騎を、南都に早くも差し向けます。さすがの衆徒らも、この事を聞き、狼狽。木津川辺りまで、やって来て、使者を時房の軍勢に遣わすのです。
使者は「軍勢が南都に入るというのは、平家が大伽藍を焼いた時と同じではないでしょうか(1181年、平清盛の命令を受けた平重衡らは、南都の仏教寺院を焼き討ちした)。我ら、悪党を探し出して、差し出そうではありませんか」と言い、全面対決を避けようとしたのです。
たっての願いということで、時房の軍勢は、強引に衆徒に攻撃を加えることをせず、京都に引き上げます。10月2日、南都で捕縛された秀康の後見人が、突き出されてきました。衆徒らは、約束を守ったのです。
時房軍数千騎が現れた時は、衆徒らはゾッとしたことでしょう。武力による威圧が功を奏したのです。