五奉行のひとり長束正家の出自は謎だらけだが、算術が得意だった
大河ドラマ「どうする家康」では、ようやく五奉行の面々が勢揃いした感がある。そのうちの長束正家の出自は謎だらけだが、算術が得意だったといわれている。その謎多き前半生について、考えることにしよう。
長束正家の出自は、ほかの五奉行の面々と比較して圧倒的に情報量が少なく、生年すら不明である。
正家の父は水口盛里で、近江国栗太郡長束村(滋賀県草津市)の出身というが、尾張で生まれたとの説もある。幕末に成立した岡谷繁実の『名将言行録』には、次のとおり書かれている(現代語訳)。
正家はもと丹羽長秀の家臣だったが、算術に長けており、兵術に優れていることで有名だった。そのため正家のもとには、算術や兵術を学ぶため、内外の国人が集まった。
これを聞いた秀吉は、長秀に正家を家臣に迎えたいと所望した。その後、秀吉は正家に一万石を与え、財政の担当を命じた。
正家は才覚があったので、この職を見事に務め、これには秀吉も大いに感心した。正家に諸国の財政を任せるようになると、これもうまく成し遂げて損失もなく、秀吉はだんだん取り立てて奉行とした。
人名辞典の類では、正家の前半生を詳しく書いていないが、おおむね『名将言行録』を要約したような説明で済ませている。むろん、『名将言行録』は武将の逸話を集めた俗書に過ぎず、すべてが正しいとは言い難いだろう。むしろ、創作にすぎないと考えるのが自然である。
先のエピソードについては、『丹羽歴代年譜付録』という二次史料にも似たようなことが書かれている。後世に成った史料なので問題がなきにしもあらずだが、ほかに正家の出自を物語る関係史料がないので、参考までに次に内容を要約して示すことにしよう。
正家は近江の出身で、優れた才能を持った人物だった。特に、算術は天下無双と称されていた。正家は若い頃から諸国を回遊していたが、そのとき小身だった丹羽長秀にわずかな禄で仕えたが、一口の食で足りると言ったという。
以後、正家は長秀に従って出陣し、大いに軍功を挙げた。のちに長秀は近江の一部を領することになり、正家は1千石を賜った。武勇を誇る正家にとってはわずかな禄だったが、ほかの諸将よりも軍功に励んだ。時期は、長秀が佐和山城(滋賀県彦根市)を領した元亀3年(1571)のことだろう。
天正年間に至って、長秀の子・長重が7歳になったとき、正家はその補佐を任されるとともに1万石を賜った。長重は元亀2年(1570)の生まれなので、正家が所領を与えられたのは天正5年(1577)のことだろう。
丹羽氏の老臣は喜ばなかったが、正家はその職をまっとうしたという。こうして、正家は丹羽氏に仕えるようになって以降、少しずつ関係する史料が増えていくのである。