【「麒麟がくる」コラム】天下とは日本全国のことか。織田信長の天下の意味を考える
■ドラマでも注目の「天下」
NHK大河ドラマ「麒麟がくる」の第39回「本願寺を叩け」では、織田信長の天下布武を取り上げていた。そもそも「天下」といえば、日本全国を意味するように思われているが、当時はそうではなかった。以下、「天下」の意味について考えてみよう。
■「天下」とはなんだろうか
「天下」とは、古代中国で誕生した世界観を表現する言葉で、天命を受けた天子が「天の下」を支配するという考え方をあらわしている。
もう少し具体的に言うと、「天下」とは至上の人格神「天」が統治する全世界のことを意味する。加えて、天子となった有徳の為政者が天命を受け、「天」に代わって支配する世界をも示した。その世界を「王土」という。この場合、有徳の為政者つまり「徳行の優れた政治家」ということがポイントだ。
しかし、撫民仁政を忘れた不徳の天子が登場し、悪政を行った場合はどうなるのか。そのときは天命が革まり新たな天子があらわれ、再び天下的な世界が編成されるといわれている。これを「易姓革命論」という。つまり、悪い政治を行った為政者は、放逐されても仕方がないということだ。
■日本における「天下」
日本において「天下」という言葉は、5世紀頃から確認することができる。稲荷山古墳(埼玉県行田市)から出土した金錯銘鉄剣にも、江田船山古墳(熊本県和水町)から出土した銀錯銘大刀にも「治天下」の語を見ることができる。おそらく、この頃までに「天下」という概念が日本に伝わっていたと考えられる。
ところが、中世以降になると、「天下」の意味は少しずつ変化を遂げた。古代では朝廷が日本を支配していたが、中世に武士が台頭し幕府を開くと、政権を担うイデオロギーが必要になった。その際、「天下」あるいは「天道」という考え方は、朝廷を相対化するうえで有効な思想となったのだ。
やがて、鎌倉幕府から室町幕府に政権が交代すると、「天下」という考え方は政権交代を正当化する理念となった(「易姓革命論」)。さらに戦国時代以降になると、「天下」は「日本全国」、全国支配の拠点である「京都」、また信長・秀吉・家康といった権力者(天下人)を示す言葉になったのだ。
以上の説明で注意すべきは、「天下」が「日本全国」だけでなく「京都」を意味したということである。近年において、信長がいうところの「天下」とは、「日本全国」ではないと指摘されている。その点をもう少し考えてみよう。
■近年の研究による「天下」
近年の研究によって、「天下」とは将軍が支配する「畿内」を示し、それが当時の共通認識であることが明らかになった。その研究によると、「天下」の意味は次の4つに集約できるという。
(1)地理的空間においては京都を中核とする世界。
(2)足利義昭や織田信長など特定の個人を離れた存在。
(3)大名の管轄する「国」とは区別される将軍の管轄領域を指す場合。
(4)広く注目を集め「輿論」を形成する公的な場。
この場合、(1)と(3)は同じ意味であることは明白であり、ここまで挙げてきた例とも一致する。当時においては、「天下」が「日本全国」を意味する例は少ないのだ。その点について、次のように説明されている。
信長は「天下布武」と刻印された朱印を用い、文書を発給していた。しかし、この「天下布武」が従来の「全国統一」を意味するならば、受け取った大名は宣戦布告と受け取らざるを得ない。わざわざ信長が敵を作るようなことをしたとは、とうてい考えられないと言うのだ。
永禄11年(1568)10月、信長は義昭を推戴して上洛し、畿内を平定すべく戦いに明け暮れた。結果、畿内に平和と秩序が戻り、「天下」が安泰になったといえよう。
こうした点を踏まえて考えるならば、信長が「畿内」を平定することを一義に置いており、それを阻む勢力とは徹底抗戦で退けようとしたのは疑いない。そして、見事に信長は打ち勝った。
■信長にとっての「天下」
天正元年(1573)に信長は将軍・足利義昭と袂を分かつが、義昭は各地の大名に支援を求め、「信長包囲網」を形成。このとき義昭が目論んだのは、上洛と室町幕府の再興だった。上洛と幕府の再興は、義昭にとっての「天下」を意味しよう。
しかし、義昭が上洛し畿内を制圧したならば、「天下(=畿内)」は再び乱れてしまう。天正8年(1580)から信長は「天下一統」という言葉を用いるが、それは義昭に与する諸大名を討伐し「信長包囲網」を崩壊させ、同時に義昭の上洛を阻止することにより、「天下(=畿内)」の静謐を図るということを意味する。
このように考えるならば、信長は必ずしも「全国統一」という意味での「天下統一」を目論んでいなかったようだ。逆に、幕府や朝廷を温存し、京都を中心とした畿内に平和をもたらそうと努力した様子がうかがえる。そうなると、我々が抱いている信長=全国統一という考え方は、改められなくてはならないだろう。