【名古屋市】大河ドラマ「豊臣兄弟!」は柴田勝家をどう描く? 明智光秀との逸話で知る、頼れるボスの姿
2026年放映予定のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」は、豊臣秀吉の弟である秀長の視点を通じて秀吉の立身出世する姿を描く内容とだけ明かされており、今のところ、主役以外のキャストや歴史上の人物が登場人物としてどのように描かれるのかなどの詳細は明らかにされていない。
ただ、豊臣秀吉の生涯を描くドラマである以上、同じ織田信長の臣下として功名を競い合った柴田勝家の存在は無視できないだろう。中村区生まれ(※諸説あり)の豊臣兄弟が大河ドラマでクローズアップされるのならば、同じ名古屋市出身であり名東区で生まれた勝家もドラマの中でかなりの存在感を放つはずである。
名東区出身の武将・柴田勝家は、秀吉とは犬猿の仲。同じ信長の家臣でありながら、信長亡き後は、その険悪な関係は攻撃し合い互いの命を奪い合う戦争にまで発展した。信長の元ではライバルだったが、制御する大将がいなくなった末は、ぶつかり合うしかない敵どうしとなり果てた。
それでは、柴田勝家は、信長配下の武将の誰とでも不仲だったのか。下剋上の戦国時代で主君であっても命を狙われ家臣に取って代わられる世の中、良好な人間関係など築くのは無理なのかもしれない。しかし、そうした状況下でも勝家は、信長配下の前田利家から「親父殿」と呼ばれて慕われていたそうだ。
もう一人、信長配下の武将のうち、柴田勝家に信頼を寄せていた者がいる。明智光秀だ。
明智光秀は若い頃、越前国(現在の福井県)を治めていた大名朝倉義景(あさくらよしかげ)に仕え、東大味(ひがしおおみ)の地で数年間を過ごしていた。明智光秀はのちにこの地を去り、織田信長に仕える。
1573年(天正元年)、朝倉義景と織田信長との間で争いが生じ、合戦が起こった。東大味は、朝倉家の本拠地である一乗谷と4km前後しか離れていない場所。明智光秀がかつて治めていた領地は、合戦に巻き込まれて荒れ果てるのは避けられない状況だった。
ところが、柴田勝家から「戦禍に巻き込まれないように、この地の民は、よその土地に逃げなさい」という内容の安堵状(あんどじょう)が出された。
明智光秀が柴田勝家に懇願し、特例を認めさせて安堵状の発行にこぎ着けたのだ。かつての領地で暮らす見知った親しい者達が、戦乱に巻き込まれて生活や生命を脅かされる惨状を、明智光秀は忍びないと思ったに違いない。
明智神社から西へ1kmも離れていない場所にある西蓮寺(さいれんじ)には、そのときに発行された安堵状が大切に保管されている。安堵状を認めた柴田勝家も東大味では尊敬の対象であり、武士の公的な服装である直垂(ひたたれ)を着た柴田勝家の木像が西蓮寺に安置されているのだ。
東大味の人達が現在も、明智光秀と共に柴田勝家に対しても敬愛の情を寄せているのがよくわかる。この地の人々にとっての柴田勝家の存在は、明智光秀が引き寄せた良縁と言えるのかもしれない。