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徳川家康も驚いた。出自が怪しい3人の戦国武将について考える

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
明智光秀。(提供:アフロ)

 大河ドラマ「どうする家康」の主人公である徳川家康は、その出自に謎が多いとされている。実は家康だけでなく、出自が怪しい戦国武将がいるので、そのうち3人を紹介することにしよう。

1 明智光秀(?~1582)

 明智光秀は大河ドラマ「麒麟がくる」の主人公でもあり、長らく土岐明智氏の子孫であるといわれてきた。しかし、明智氏の諸系図を確認すると、光秀の父の名前はバラバラである。

 そのうえ、いずれの光秀の父と称する人物は、たしかな一次史料では確認できない。明智氏の系図をいくら詮索しても、まったく意味がないといえよう。

 「戒和上昔今禄」という史料には、光秀の先祖が足利尊氏に仕え、そのときに拝領した判物類を所持していたという記録がある。この史料から光秀の家系は、室町幕府の御家人だったが、やがて美濃守護の土岐氏に仕えるようになり、そもそもは土岐明智氏の傍流だったとの見解もある。

 しかし、光秀が所持したという尊氏の判物などは確認されておらず、そうした事実をほかの一次史料で確認できない。光秀が土岐明智氏の流れを汲むという説には、まったく賛意を示すことはできない。

2 織田信長(1534~1582)

 織田家の諸系図を見ると、その出自は平資盛(重盛の次男)になっている。資盛の子の親真が近江津田郷(滋賀県近江八幡市)に逃れ、その後、越前織田荘(福井県越前町)の神官が親真のもとを訪れ、養子としてもらい受けた。

 やがて、親真は神職を継ぎ、織田家の祖となったという。僧侶の兎庵が記録した『美濃路紀行』にも、そうしたことが書かれている。以後、織田家は平氏の流れを汲むと認識されてきた。

 しかし、尾張国下四郡の守護代の織田達勝は、円福寺(名古屋市熱田区)に禁制を与えた際、「藤原達勝」と署名した(「円福寺文書」)。信長も熱田八ヵ村(名古屋市熱田区)に宛てた禁制に「藤原信長」と署名している(「加藤文書」)。

 つまり、もともと織田氏は藤原氏が本姓であり、信長が足利義昭を放逐した天正2年(1574)以降、平姓を名乗ったほうが良いと判断したと思われる。平姓に改姓した理由は、必ずしも明らかではない。

3 黒田孝高(1546~1604)

 黒田氏は大河ドラマ「軍師官兵衛」の主人公であり、その出自は近江佐々木氏の流れを汲む黒田氏に求められてきた(『黒田家譜』)。これが事実ならば、黒田氏は名門の流れを汲んでいたことになる。

 しかし、孝高の祖父の重隆までは一次史料で確認できるが、それより前の先祖は確認できない。発祥地とされる近江国黒田村(滋賀県長浜市)にも、そうした記録が残っていないので、現在では疑わしいとされている。

 近年では、「荘厳寺本黒田家略系図」に基づき、黒田氏は赤松氏の流れを汲み、黒田庄(兵庫県西脇市)に本拠を置いたという説が提唱された。

 しかし、そこに記された歴代の黒田氏は、一次史料で確認することができない。やはり、この説も疑わしく、現在では否定的な見解が多数を占めている。

 武将の系譜を確認する際、単に後世に成った二次史料である系図類を鵜呑みにしてはならない。そこに書かれた歴代の人物について、一次史料で確認できるのかを調べる必要がある。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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