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「専門職大学」創設に向けて政府にお願いしたいこと 貧乏人をなくしたい

遠藤司皇學館大学特別招聘教授 SPEC&Company パートナー
(ペイレスイメージズ/アフロ)

 8月28日、リセマムに「専門職大学が制度化、修了者に学位授与…H31年度スタート」と題する記事が掲載された。

 かねて注目されてきた「専門職大学」および「専門職短期大学」について、中央教育審議会は「専門職業人」の養成を目的とする新たな高等教育機関としての制度を設けることが適当であると認め、8月23日付で答申したとのことである。

 これで世の中は変わる。否、変えられる。変化は常に生じている。10年前の知識は役に立たなくなっている。すでに到来している知識社会において、知識が役に立たなくなるということは、それを持つ人、知識労働者もまた、役に立たなくなるということである。つまり、時代遅れの知識を持つ人は、お払い箱になるということである。不幸になるということである。

 生涯学習が云々といったことは常に言われてきた。しかし、知識というものは、目的のための体系を持ったときにこそ大きな力を持つ。単位あたりの知識を組み上げていても、体系にはならない。全体は部分の総和ではないのである。よって、まとまった知識、一つの専門分野としての知識を、腰を据えて学ぶ機会がなければいけない。

 その機会が、この専門職大学である。「専門職大学院」というものはすでにあるが、いまだハードルが高い。それは「大衆」からしてみれば、雲の上の存在である。仕事とはすべての人が従事するものであるから、高校卒業レベルから、あるいはより多くの社会人に開かれた場所として、職業人として求められる能力を育む場所があったほうがよいのである。

専門職大学の意義

 専門職大学は、専門学校とは異なる。専門学校は、仕事において必要なスキル、技能を習得する場所である。一方で専門職大学は、「専門職を担うための実践的で応用的な能力を育成・展開することを目的」としている。ここには、専門学校にはない「応用的な能力」を習得する機会が含まれる。そうであるから、いま必要な技能をより高めたいのであれば、専門学校とダブルスクールをすることが推奨される。いうなれば、大学で法学を学びながら、法律専門学校へ通うのと似ている。よって専門学校の価値は、落ちない。より効果的・効率的に技能を得るのは、専門学校である。存在意義は残り続ける。

 専門学校と異なるのは、例えば創造性の領域である。創造性、ものをつくり上げることの起点である課題発見力やアイディア創出力、および実践力は、技能ではない。また、マネジメントの能力はよき人間性に関わるところのものであるから、これも技能ではない。リーダーシップもまたそうである。そういうわけで、仕事においてそのような能力を発揮するための教育は、専門職大学で行うのが適切である。

 したがって、専門職大学には既存の大学と同じように、一定の研究力が求められる。なぜなら、職業とかビジネスといったものの先の姿を、切り拓かなければならないからである。次なる世の中において必要な能力が何であるかが分からなければ、それに応用するための能力を教えることはできない。いま求められる技能を教えることしかできない。よって設置基準案では、専門職大学には4割以上の実務家教員を置きながらも、その半分以上は研究能力を併せ有することを求めることとされている。

 ようするに専門職大学とは、自らの未来を開拓することを目的とした、大学院とは異なり、より多くの人に開かれた大学のことである。それは努力することさえできれば、すなわち能力を習得することに真摯に向き合うのであれば、その先の未来をつくることを保証する大学のことである。ゆえにそういう信念、および覚悟のある大学しか、専門職大学を名乗るべきではない。入学する学生の未来のためにも、この専門職大学というものは、既存の大学の延長上にあるものとして考えてはならないのである。

政府にお願いしたいこと

 ここで筆者の思いを述べたい。世の中には、困っている人がいる。頑張っても報われなかった人がいる。幸せになりたいのに、そうなれない人がいる。どうすればよいのかがわからない人がいる。

 専門職大学は、彼らを救うことができる。困っている人たち、報われない人たちは、どうすれば成功するのかがわからない。まとまった知識がなく、姿勢とか、マインドとか、そういったものが成功から離れていることが多い。しかし、彼らはもがいている。努力している。努力の方向を正しくしてやれば、彼らは成功に至るはずである。そのようにすれば、彼らは幸せを感じ、活き活きと、自身の人生を営むことができる。

 彼らは貧乏人である。努力してはいるが、貧乏人である。その理由は、高い成果を上げ、企業から永続的に必要とされる能力がないからである。正社員になって経営の一端を担う能力がなく、よって高い賃金を得られないからである。貧乏人は、いまの生活をよくするための余裕がない。現状を変えたいと思っても、金も時間もないから、学ぶことができない。だから彼らに必要なのは、いまの生活のための最低限のお金と、未来のために使うことができる一定の時間である。明日を切り拓くために学ぶ、たったそれだけの、しかし最も重要な時間的余裕であり、すなわちそれは、彼らに前向きに生きるための資格を与える時間である。

【頑張る意思のある人を応援する制度を】

 人は飯を食わなければならない。着るものを買わなければならない。家賃を支払わなければならない。家族のために、それらを保証しなければならない。本を読んだり、大学に通ったりという時間、またそのエネルギーは、仕事に使われるのが通常である。

 よって大学には通えない。そのため貧乏人は、貧乏人のままである。しかし、そのような境遇にいて、それでも頑張ろうと思っている人たちがいる。その人たちを支える制度があれば、彼らは現状から抜け出すことができる。

 答申には、4年制では修業のために600時間以上の企業内実習を履修する、とある。つまり、実際に働くことが求められるのである。この「実習」なるものに、給料を支払うことができるようにしてほしい。否、むしろ考え方を逆にし、必要があれば働きながら専門職大学に行けるようにしてほしい。つまり、「住み込み」で働きながら、大学に行くのである。衣食住が保証されたなかで、大学に行けるようにするのである。

 制度設計としては、例えば一日の5時間を企業で働き、3時間を大学に行くなどである。働く時間が単位認定されれば、卒業までのハードルはずいぶんと下がる。必要になるのは、住み込みのための家賃である。この家賃負担分のいくらかを、補助金で補填して欲しい。可能であれば、制度を受け入れてくれた企業のほうに出すほうがよさそうだ。そうすれば、その企業は専門職大学を卒業した優秀な学生を確保しやすくなるし、学生の卒業後のパスもできる。入学者が増え、地域活性化にも繋がる、ということである。

 筆者は政府の多くの補助金について否定的に見ている。補助金は多くの場合、人から稼ぐための動機を失わせ、現状を打破する力を奪うからである。しかるにそれは、補助金があって、それをできるだけ多く貰おうとする人がいるから、そうなるのである。すなわち、頑張る人がいて、その頑張りを支援するための補助金であれば、害はないように思う。施しを与えるのではなく、稼ぐ方法を習得するための支援であれば、その補助金は生きる。

 初めて政府に補助金をお願いしている。これはつまり、税金を支払っているすべての国民にお願いしている。彼らを助けて欲しい。貧乏から抜け出すことすらできない人のために、皆様の税金を使うことを許して欲しい。みんな大変だとは思うが、どうか未来の日本のためと思って、彼らの未来に投資してほしい。日本のため、地域のため、人のために使うことこそ、本当の税金の使い道であろうと思う。

 頑張る人が報われる日本、希望のある日本、幸せに働く人があふれる日本の実現のために。

皇學館大学特別招聘教授 SPEC&Company パートナー

1981年、山梨県生まれ。MITテクノロジーレビューのアンバサダー歴任。富士ゼロックス、ガートナー、皇學館大学准教授、経営コンサル会社の執行役員を経て、現在。複数の団体の理事や役員等を務めつつ、実践的な経営手法の開発に勤しむ。また、複数回に渡り政府機関等に政策提言を実施。主な専門は事業創造、経営思想。著書に『正統のドラッカー イノベーションと保守主義』『正統のドラッカー 古来の自由とマネジメント』『創造力はこうやって鍛える』『ビビリ改善ハンドブック』『「日本的経営」の誤解』など。同志社大学大学院法学研究科博士前期課程修了。

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