豊臣秀吉の没後、毛利輝元を自陣に引き込んだ石田三成の実力
大河ドラマ「どうする家康」では、関ヶ原の戦いを迎えつつある。豊臣秀吉の没後、石田三成はいったん逼塞を余儀なくされたが、やがて徳川家康に対抗すべく、毛利輝元を自陣に引き込んだ。これにより、三成は大きな後ろ盾を得ることになった。そこに至る経緯を確認することにしよう。
慶長3年(1598)8月に秀吉が亡くなると、その時点で家康と五奉行(石田三成、浅野長政、前田玄以、増田長盛、長束正家)の面々は対立の様相を呈していたという。ただし、浅野長政だけは、家康との関係が悪くなかった。
五大老の毛利輝元は、五奉行(実際は四奉行)に味方すべきか、家康に与するべきか判断に迷っていた(『萩藩閥閲録』)。ここで判断を間違えると、毛利家が滅亡しかねない重要な案件だった。ところが、秀吉が没してからたった10日後、輝元の胸中を察した三成は、味方に引き入れることに成功したのである。
輝元は五奉行(浅野長政を除く)の味方になると決意したとき、彼らに起請文を捧げた(「毛利家文書」)。輝元が提出した起請文は、自らの意思で差し出したものではなく、三成の要請によって書かされたものだった。三成をはじめとする奉行衆には、輝元を突き動かすだけの力があった。
起請文の内容は、五大老のなかで四奉行に「心得違い」をする者があらわれたときは、輝元が四奉行に協力することを誓約したものだ。「心得違い」の意味は、豊臣政権の主導権を握ろうとする動きのことだろう。
「五大老のなか」と具体的に人名を記していないが、それが家康なのは明らかだ。なお、四奉行の面々は、先述のとおり浅野長政が親家康派と考えていたようである。
輝元は起請文で交わした約束を履行するため、家康と四奉行が仲違いすると予想し、上方に兵を集めていた。以降、輝元は反家康の急先鋒として行動するが、三成が輝元を味方に引き入れたので、突き動かされたことに注意すべきだろう。
輝元と四奉行は秘密裡に起請文を交わし、同盟関係を結んだことは、その後の政局に大きく影響した。西軍の面々といえば、石田三成の存在が注目されるが、むしろ輝元の積極的な反家康の行動にも着目すべきだろう。
従来いわれてきたように、五奉行は五大老の下だったというのは誤りで、その存在を侮ることはできなかった。
彼らが家康に対抗するだけの力を持っていたのは、家康が私婚を無断で進めた際、五大老の前田利家を動かしたことでも確認できよう。家康に対抗するため、輝元を味方に引き入れたことも、その一つなのである。恐るべし五奉行!