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【深読み「鎌倉殿の13人」】初代鎌倉幕府の将軍・源頼朝はどんな性格だったのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
源頼朝は、血も涙もない男だったのか。(写真:GYRO_PHOTOGRAPHY/イメージマート)

 本日、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」がはじまる。初回に登場するのが、大泉洋さんが演じる源頼朝だ。大泉さん演じる頼朝は、コミカルタッチと仄聞するが、実際にはどういう性格の男だったのだろうか。

■暗い少年時代

 久安3年(1147)源頼朝は義朝と熱田大宮司を務めた藤原季範の娘の三男として誕生した。

 一見すると前途洋洋であるが、父の義朝は平治元年(1159)の平治の乱で平清盛に敗北。逃げる途中の尾張で殺された。

 頼朝は父とはぐれてしまったが、その後、美濃で捕縛された。

 本来ならば処刑されるところだったが、池禅尼(清盛の義母)の助命嘆願により、命だけは助かった。しかし、伊豆へ流されたのである。

 伊豆に流された14歳の頼朝は、伊東祐親らの監視のもと、20年にわたって流人生活を送った。頼朝が平氏に挙兵したのは、治承4年(1180)のことである。

 文治元年(1185)3月、源義経が率いる軍勢が壇ノ浦で平氏を打ち破り、長い争乱にピリオドを打った。

 こうして頼朝は鎌倉幕府を開幕し、建久3年(1192)に征夷大将軍に任じられたのである。

■頼朝は血も涙もなかったのか

 頼朝が権力を掌中に収める過程において、弟の義経や有力な豪族を次々と殺したことはよく知られている。その点は、こちらに書いたので、改めてご一読いただけると幸いである。

 一般的に頼朝は、好人物とは思われていない。非常に猜疑心が強く、冷淡な性格だったといわれている。

 その人物像は、『平家物語』のような文学作品、後世の編纂物、あるいは現代のテレビドラマや小説などの影響で形成された。

 頼朝は幼い頃に父を殺され、少年期から壮年期まで侘しい流人生活を送っていた。しかも監視付きである。したがって、頼朝の性格がゆがんだとしても、いたしかたない点があろう。

 とはいえ、一次史料(同時代の史料)には、頼朝の性格が書かれているわけではない。

 文学作品や編纂物には、頼朝の性格が誇張されている可能性もある。したがって、実際の頼朝がどんな性格だったのかはわからない。

 一般論でいえば、頼朝は激しい権力闘争の場に身を置いていたのだから、諸事にわたって疑り深くなるのは当然のことである。同時に、権力者はある意味で常に孤独である。

 そして、敵対すると思しき勢力があらわれた場合、徹底して殲滅することが、他の者に対しての牽制になった。その相手がたとえ弟であったとしてもである。

 したがって、頼朝の人格をことさら貶めるのは、正確でないのかもしれない。

■むすび

 当時の武士は、ほかの豪族だけでなく、親子間、兄弟間での争いが特に珍しくなかった。ゆえに、頼朝の猜疑心が強いとか、冷酷であると評価するのは不当であろう。

 大河ドラマの頼朝は、コミカルタッチで描かれるというが、はたしてどうなるのだろうか?大いに期待しよう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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