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神ドラマ『全領域異常解決室』 最終話で神が人間に伝えようとした「大事なこと」

堀井憲一郎コラムニスト
(写真:Shutterstock/アフロ)

(『全領域異常解決室』のネタバレしています)

八百万の神のドラマは驚きの連続

『全領域異常解決室』は最後まで驚きの連続だった。

日本古来の八百万の神が登場するこのドラマは、その神々を「ヒルコ」と名乗る存在が抹殺し始めるという展開を見せる。

ヒルコもまた八百万の神の一員である。

神による神の抹殺のお話であった。

いちおうすべての神は人間の姿のまま現代社会に生きているのだが、その神々の戦いという壮大な展開を見せていた。

そして、最終話、悪の神「ヒルコ」の正体がわかる。

役小角が1400歳近くまで生きている

なんと、「ヒルコ」は人間であった。

しかも7世紀に実在したとされる役小角(えんのおづぬ)である。

西暦紀元でいえば634年ころに生まれたとされ、山岳修験道の開祖とされる。

舒明帝の御代の生まれだとすると、いま1400歳近い。

役小角は人魚の肉を喰らい不老不死の力を得たらしい。

そして現代にまで生き延び、社会を強く変革しようとしている。

驚きの展開である。

「日本」の神々が照射される

不老不死の力を持っているとしても、役小角は神ではない。

超絶した能力をもつ人間である。

彼が、人間を巻き込んで、八百万の神のすべてを抹殺しようとしているのが、『全領域異常解決室』の核心にあった。

すごいドラマである。

世の中を変えるため、八百万の神を殲滅しようという物語とは、壮大というか、ものすごいというか、いやはや、とんでもないドラマである、

だからこそ「日本」という社会のいろんなものを照射していて、めちゃおもしろい。

人間を甘やかす神に怒る

役小角は、いまの人間の為体に怒っている。

とくにスマホとSNSに怒っているようだ。

そして、そういう人間を甘やかして放置している神々にさらに強い怒りを向けている。

だから神をみんな殺す、人間も一部だけ残して殺す、という行為に出る。

勇ましい。

でも、あまり日本的な行為ではない。

傲慢な人間そのもの

最終話の後半、役小角(現代人としは直毘審議官/柿澤勇人)は、この気持ちはわかりますよねと神(天ノ石戸ノ別ケノ神/藤原竜也)に問いただす。

でも神は、まったくわかりませんと答え、世を変えようとするあなたの行為こそ、傲慢な人間そのものだ、と指摘する。

神は人間をただ見守るばかり

では「どうするのだ」と役小角に聞かれ、神は答える。

「どうもしない」と。

「いままでどおり見守り続けます」と言う。

見ていて慄えてしまった。

これぞ神だ。

おそらくこのセリフがドラマの最重要ポイントであったと私はおもう。

「日本の神はただ我々を見守るばかり」

これが日本の神々が在ることのおおもとなのだ。

人間は守る理由も価値もない

役小角は怒る。

「今の人間どもを守る理由なんてないだろ!」

神は即答する。

「理由なんてありません、守る価値もない」

「なら何故?」

「僕は神だからです」

この禅問答じみたやりとりが、ドラマの核心である。

「どんなに愚かでも人間を守る責務から僕らは逃れられない。何度裏切られても、人間たちを信じ続けるしかないんです」

愚かでも信じ続けるしかないと何千年もおもいつづけている存在。

それが神なのだ。

神は人間によって現出した

どうやら大八島の神々は、つまり日本の神は、人間と一緒にいる空間にしか存在しない、ということのようだ。

彼らは全知全能存在ではなく、人を作り出したわけではない。

どちらかというと人が作りだしたものであろう。いや、想念で浮かべたから出現したという意味ではない。いまはその地平の話ではない。

ぼんやりとそのへんに漂っていたようなモノが、人の社会が形成されるにつれて感知されるようになった、そういうことではないかと私は考えている。

神話というのはそういう地平で形成されているはずだ。

八百万の神と人間存在

八百万の神の存在は、人間存在と表裏一体となっている。

それが日ノ本のおおもとだ。

このドラマのすごいところは、そういう神々と人との関係をその根っこから示したところにある。

日本に住まう人の情感なら、わかってくれそうなところを描いて、なかなかに鋭い。

すべてを知りたがるのは人間の傲慢です

ドラマの最終盤、荒波警部(ユースケ・サンタマリア)が、興玉(藤原竜也)に「神は、消えてもどこかから見守っているのか」と聞く。

興玉は苦笑しつつ「すべてを知りたがるのは人間の傲慢ですよ」と答える。

ドラマ前半でも出て来たセリフである。

やりすぎるなよというメッセージ

すべてを知りたがる、というのは、たとえば近代科学が根本に持っている動機でもある。

神々はその態度そのものを否定してはいない。

でもやりすぎるなよ、というメッセージを発している。

「知りたがる」のはかまわない。でも「すべてを知りたがる」のは傲慢だという指摘だ。

そこに人間の危機が潜んでいるということでもある。神さまらしい心配だ。

「すべてを知りたがるのは人間の傲慢ですよ」

刻んでおきたい言葉である。

メッセージの真ん中は「神はただ人間を見守るばかり」

ドラマのメッセージの真ん中は、神はただ見守るばかり、というところにあったと私はおもう。

力は貸さないかもしれないが、味方ではある。

そういえば、中学生のときに、梶原一騎先生の言葉から学んで、その後何となく気をつけていることが、神社にお参りしたときに、祈願するのは「これからこういうことを成し遂げたいとおもっているので、見守っていてください」という方向でお祈りしなさい、というものである。

自分の願いを叶えてください、と頼むのではない。

この願いを叶えたいので、自分、がんばるので、見守っていてください、と言うのが正しいのだと習ったのだ。

神さま祈願は「見守ってください」というお願い

ふだんは何も考えずに頭からっぽで二礼二拍手としていることが多いが、何か頼みごとがあるときは、この言葉をおもいだして、見守りをお願いするようにしている。

それはこの天ノ石戸ノ別ケノ神の「ただ見守っている」という言葉と合致していて、やはりそういうものなのかと、いまさらながら、おもいいたる。

我々の神さまは、ただ見守ってくれているばかりなのだ。

可能性を広く秘めたドラマ

あらためてドラマからそのメッセージを受け取った。

神さまが人間に言いたいのは、それだけ、なのかもしれない。

見守り続けてくれる。でも、深くは関わってくるわけではない。

でも神さまの存在を、神さまが見ていることを、意識しているのが大事なのだ。

そのあたりが、うちの神さまって感じがする。

そういううちの列島の神さまについて、いろんなところからおもいを馳せられるドラマであった。

可能性を広く秘めたドラマだ。

ラストシーンは不穏で、広瀬アリスと成海璃子の動きが不気味であった。

ぜひとも映画で続編を見たい、とおもうばかりだ。

コラムニスト

1958年生まれ。京都市出身。1984年早稲田大学卒業後より文筆業に入る。落語、ディズニーランド、テレビ番組などのポップカルチャーから社会現象の分析を行う。著書に、1970年代の世相と現代のつながりを解く『1971年の悪霊』(2019年)、日本のクリスマスの詳細な歴史『愛と狂瀾のメリークリスマス』(2017年)、落語や江戸風俗について『落語の国からのぞいてみれば』(2009年)、『落語論』(2009年)、いろんな疑問を徹底的に調べた『ホリイのずんずん調査 誰も調べなかった100の謎』(2013年)、ディズニーランドカルチャーに関して『恋するディズニー、別れるディズニー』(2017年)など。

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