明智光秀ゆかりの地へ(その2) 光秀が整備した福知山を歩く
織田信長の有能な家臣として出世を遂げた明智光秀は、文化的教養に秀でて交渉も上手く、戦ってよし、統治してもよしと、ほぼ万能型に近い武将だったため、信長が常に近くにおいて頼りにしていたとされ、重要な「丹波攻め」も任されることとなった。丹波の攻略と統治も、山間の複雑な地形に根をはる地侍を手なずけるのには相当の器と適応力が求められたが、光秀はこれを見事にやり遂げた。その際に、亀岡の亀山城からさらに奥へと拠点を移し、丹波統治の本拠としたのがここ福知山である。
JR福知山駅から真っ直ぐ北に向かうと御霊神社が見えてくる。
こちらは悲運の生涯を終えた光秀を祀る神社であり、直筆の書状なども蔵している。境内には光秀の本能寺の変直前の心境を表した頼山陽の漢詩の石碑も置かれているほか、水害に悩まされてきた福知山らしく、全国的にも珍しい堤防神社もある。
神社前の広場には昭和28年の水害の際に、浸水した水位を表す大きなモニュメントがあり、前に続く広小路通には光秀時代から始まったとされる福知山音頭を踊る踊り子の像が並んでいる。
さらにその門前の鋳物師町・寺町・下柳町周辺は風情ある古い町並みが続いており、突き当たった由良川沿いに出ると、光秀が河川の氾濫を防ぐために造ったと伝わる明智藪が見えてくる。
藪の近くの川沿いには天正12(1584)年創建の明覚寺があり、こちらの山門は明治になって廃城となった福知山城の城門が移されたものと伝わる。
そしていよいよその先に見えるのが福知山城だ。佐藤太清記念館の一部が来年の2月7日までは「福知山光秀ミュージアム」として見学できるようになっているので、お城との共通券を購入して見学しておきたい。坂を登った丘の上に建つ福知山城は「続日本百名城」に選ばれている美しい城で、光秀造営当時の面影を残す石垣の上に、昭和61年に市民の熱意で再建された3層4階の天守閣がそびえ立つ。
面白いのは石垣で、よく見ると中央部に斜めに境界線が入っているが、向かって右側が光秀が築城した時代のものとされ、この部分に多くの転用石(五輪塔や石仏などが石垣として利用されたもの)が見られる。
郷土資料館にもなっている城内に入って望楼に登ると、福知山親名山10選に選ばれている美しい山並みや由良川の流れなど、光秀が見たのと同じ地形の福知山全体を見下ろすことができる。
光秀が統治した頃は五層の立派な天守閣を備えた堂々たる城であり、城下町も光秀の時代に整備された。由良川に堤防を築き、地代を免除するなど、光秀は善政をしいたことから領民から慕われ、現在も名君として崇められている。この街を歩くと、主君を討ったという一般的な光秀像とは正反対の、穏やかで平和を求めた光秀を感じることができる。