【戦国時代】彼らはほんとうに“愚将”なのか?名誉回復させたい武将・3選
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わずかな軍勢で、とてつもない大軍に逆転勝利!
今までにない発想で、偉大な改革を成し遂げた!
日本の歴史をひも解くとき、このような“英雄”が伝説となる一方・・
「〇〇は〇〇家をつぶしたよね」
「まったく時代を見る目がない」
このように、ダメ武将の烙印を押されがちな人物も、存在します。
しかし彼らは本当に、ザンネンな愚将だったのでしょうか?
この記事では、そうした武将に対し、一般のイメージとは違う視点にもフォーカスし、
ぜひ彼らの名誉回復を、目指して行きたいと思います。
【名誉回復したい武将・1人目】武田勝頼
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戦国最強とも謳われ、天下取りレースの最有力候補だった武将『武田信玄』。
・・そのあとを継ぎながらも、織田家と徳川家に大敗してしまいます。
とくにズラリとならぶ鉄砲隊に対し、
「鉄砲を恐れるなぞ、武田騎馬隊の名折れであろう!」とばかりに突撃。
壊滅した“長篠の戦い”のエピソードは、視野が狭く慢心した武将として
イメージを固定させてしまいました。
しかし後世に書かれた“甲陽軍鑑(こうようぐんかん)”という書物では、勝頼を
「上杉謙信に似ている」「強すぎる大将」などと評しています。
これは、どういうことでしょうか?
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じっさいに武田家は、勝頼の代になって最大版図を築いています。
そして父の信玄も攻略を断念した、今でいう静岡県の要衝・・
要害の地に2つもの本丸が築かれ、極めて堅固と言われた
「高天神城(たかてんじんじょう)」を、攻め落としています。
また美濃の要衝「明智城(あけちじょう)」にも、約6千の兵で攻め込みました。
危機を感じた信長は、自ら3万もの軍勢を率い、救援に向かいますが・・
あまりにも速攻で落とされたため、間に合わず。
城主は討ち取られ、さらには駆けつけた織田勢の方が逆襲を喰らい、慌てて撤退。
その軍略は、まさに“速きこと風の如し”。
信長や家康を、大いに恐れさせました。
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そうかと思えば、領内で農民の土地争いが起きた際、
勝頼は湯治で休暇中だったにも関わらず、当事者を呼び寄せたと言います。
そして、その訴えに耳を傾けて、仲裁。
どのような時も政治を疎かにせず、広く耳を傾ける姿には、
誠実で、器の大きい人物像が伺えます。
・・そんな彼ですが、いろいろと運の悪さが、付きまとってしまいました。
長篠で敗北した後、今まで宿敵だった上杉家と同盟を結び、立て直しを図ります。
その外交センスは見事だったのですが、上杉謙信が死去したうえ、その後継ぎ争いが勃発。
援軍として頼れないどころか、そのゴタゴタに巻き込まれて、すり減ってしまいます。
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また、かつては勝頼自身も、父から当主の座を引き継ぐまでに、ひと悶着を経ており
彼を武田家の正当な当主と認めない家臣もいました。
その求心には、生涯を通じて苦労しています。
織田や徳川と決戦を急いでしまったのも、そうした内情も無関係ではないかと思われます。
信玄からの負の遺産に、足を引っぱられてしまった境遇も、ハンデがあったと言えそうです。
・・武田勝頼。
手放しに“名将”とまで言えるかは分かりませんが、しかし1大名として
すくなくとも“準名将”くらいの手腕は十分にあったのではと、そのように思えます。
【名誉回復したい武将・2人目】今川義元
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「ほっほっほ、いまごろ織田の小倅は、城でふるえておるわ」
顔中におしろいを塗って、言葉遣いといい、姿といい、まるでお公家さん。
そして桶狭間の戦い。
織田勢に奇襲されると「ど、どうなっておるのじゃ~、助けてたもれ~」
おごり高ぶって油断した挙げ句、あわてふためく愚かな人物・・。
とくにひと昔前までは、今川義元といえば、このイメージが大半でした。
しかし彼は本当に、こんな“バカ殿様”みたいな人物だったのでしょうか?
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同時代、いまでいう福井県に朝倉宗滴(あさくら・そうてき)という、名将のなかの名将と呼ばれた、戦国武将がいました。
彼の残した書物には「大名の手本となる人物」という項目があるのですが、上杉謙信などと共に、今川義元の名が挙げられています。
じっさいに今川家の領地は、もともと駿河と遠江の2か国でしたが、義元の代になって
3か国+尾張の一部と、飛躍的に拡大しています。
政治においては海路や東海道を整備し、金山開発や検地も行い、財政を安定化。
それに伴い、戦時に動員できる兵力も、何千という単位で増えました。
そのうえ東側の大勢力、武田家・北条家とは政略結婚を行って同盟。
後顧の憂いを断ちます。
・・と、なれば。
戦国大名としては、これだけの好機を揃えながらも、
天下を目指さない方が、名が廃るというものです。
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不幸にも、満を持しての天下取りも、初戦の相手が織田信長。
まさかの討ち死にで、愚将のイメージが定着してしまいましたが
それで全てが“バカ殿様”あつかいとなるのは、なかなか厳しいものがあります。
ひとたび敗者となれば、世の中の視線は、冷たくなりがちです。
しかし現在では、そうした人物像もだいぶ見直され、
歴史ゲームや大河ドラマといった一大コンテンツにおいても、やり手な大名として、
むしろ優秀に描かれることが、多くなってきています。
【名誉回復したい武将・3人目】北条氏政
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あるとき彼は、名将と謳われた父・北条氏康とともに、食事をしていました。
ご飯にお味噌汁をかけて食べようとして、しかし・・「お、少し量が足りぬな」。
そう感じた氏政は、さらにもう1回つぎ足しました。
それを見た父・氏康は嘆いたと言われます。
「こやつは毎日、飯を食べていると言うに。汁をかける量さえ、分かっておらんとは。
これで人の思惑や実力など測れようか?北条家も、こやつの代で終わりか。」
そんな、それくらいはいいじゃないか・・と現代の感覚からすると、思ってしまいますが。
弱肉強食の戦国においては、それくらいの厳しさは当然ということでしょうか。
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そして時は流れて、安土桃山時代。氏政は秀吉への臣従を拒否しました。
とてつもない大軍に城を囲まれ「いったい、どうすれば!」と、
まいにち会議ばかり開くも、何の打開にもならず。
ついには降伏して切腹。
相手の力量が分からず、北条家を潰した当主として、愚将のイメージが、沁みついてしまいました。
・・と、上記イメージの氏政ですが、その名の一字通り“政治”の手腕は良かったようです。
また折に触れ、自国領のお百姓と畑仕事を共にして、慕われていた逸話も伝わります。
そして北条家降伏の際も、代わって関東を治める徳川家康に
「この地の民を、どうかよろしくお願い致します。」と手紙を書き
領地の地図や、水害が発生した際の避難方法など、もろもろを渡したと言います。
これから死にゆく身で、普通ここまでの事ができるでしょうか?
為政者としては“仁君”と言っても、過言ではないように感じられます。
・・なお、のちに徳川家が実際に、統治を開始すると
「北条様のころが良かった!」と、農民一揆が勃発。
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あの天下の徳川家康が、だいぶ手を焼いたという事実があり
これも氏政の善政を、物語るようです。
また“他大名の力量を測る目”に関してですが、氏政は織田信長が台頭すると
いち早く政略結婚を持ちかけ、その約束を取りつけました。
まったく実力が測れない人物とは思えません。
しかし信長の策略もあったのか、何だかんだで同盟の話は先延ばしに。
そして武田家を討つ戦いでは、織田や徳川に呼応して出兵したものの
戦後はイイとこ取りをされた挙げ句、ぎゃくに北条の領地は削られる結果に。
とうぜん不満はあったでしょうが、力関係からも強く出られず、吞まされた過去がありました。
たしかに後々、秀吉に対抗すべきではありませんでしたが、
「強者に頭を下げれば、いい様にされてしまう」
そのように考えてしまったとしても、ムリはないのではと、擁護したい気持ちになります。
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以上、ダメ武将の烙印を押されながらも、決してそれだけではないと、
名誉回復の視点を込めて、お伝えさせて頂きました。
もちろん、こうした見方もまた、あなたに押し付けるものではありません。
しかし「歴史は1つの価値観に捕らわれず、いろいろな角度から見られる」と。
そのように感じて頂けましたら、幸いです。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。