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【戦国時代】忍者が武士の大軍を翻弄!幕府の大軍をも返り討ちにした甲賀の合戦「鈎(まがり)の陣」とは?

原田ゆきひろ歴史・文化ライター

ときは1467年、室町幕府の内部では将軍の座をめぐって、日本中を真っ二つにして争われた応仁の乱が起こりました。

さながら後の世の関ヶ原合戦のように、日本中の有力大名がこぞって参陣。京都で何年も戦いに明け暮れていると、そのスキに留守にしていた領地では、勝手に独立して好き勝手に振る舞う、多数の勢力が登場しました。

まだ日本の最高権力者としての足利幕府は存続していますが、最盛期のような権威はなく、日本の歴史においてはこれ以降の時代を通称、戦国時代と呼びます。

足利家VS六角家

さて、そのころ今でいう滋賀県には〝六角高頼(ろっかく・たかより)〟という大名が存在していたのですが、彼も混乱に乗じて勢力を拡大した1人でした。

足利幕府はこの行動を咎め、奪った領土をもとの支配者に返すように勧告しますが、六角氏は忠告に耳を貸しません。

これに怒ったのが、日野富子の息子にして9代将軍の〝足利義尚(よしひさ)〟です。彼は武力を用いて、六角氏の征伐を決意しました。

全国の有力大名にも参陣を呼びかけると、信長の先祖たる織田家を率いる斯波(しば)家、細川家、また西日本からは大内家など、続々と軍勢が集結しました。

その状況を見て、足利義尚は思いました。「われらの権力は衰えて久しい。だが、まだまだ呼びかけには、これほどの軍勢が馳せ参じるのだ。ここで反逆者の六角を討ち、その武力を全国に示せたならば、再び威光を取り戻せようぞ!」

彼はみずから2万以上とも言われる大軍を率いて出陣し、怒涛の勢いで攻め込むと、対抗できずと判断した六角軍は本拠地を放棄して、逃亡しました。

こうして戦いは幕府軍の圧勝かと思われましたが、しかし・・。

立ちはだかる忍者軍団

六角氏の領地には甲賀忍者の里があり、撤退した六角軍はその周辺に身を潜めたのです。もともと六角家は甲賀と懇意にしており「我らは貴殿らに自治を認め、いっさい口出しはしませぬぞ」と、領主として特別な待遇を約束していました。

その代わり「我らが危機の時には、助力をお願いいたす」という盟約を交わしており、その約束を果たすべく、甲賀の有力な一族が集結して立ちあがったのです。

幕府軍としても本拠を落としたとはいえ、六角氏そのものを討たなければ、また返り咲いてしまいかねませんので、甲賀の地まで追撃してきました。

このとき甲賀忍者は六角軍と連携して、“亀六(かめりく)の法”と呼ばれる戦法を実施したと言います。

亀という生き物は、4つの手足にアタマとシッポを合わせ、合計6つの穴を甲羅に空け、自在に出したり引っ込めたりできます。

これになぞらえ幕府軍を自らのテリトリーへと誘い込むと、神出鬼没に様々な方法を用いて、奇襲攻撃を仕掛けました。とうぜん討伐軍も反撃を試みますが、その体勢を整える前に、六角・甲賀の手勢はあっという間に姿を消してしまうのです。

こうした戦法を繰り返し、さんざんに翻弄して悩ませました。これにはさすがの大軍も、その力を発揮できません。うかつに進軍はできず、戦いは長期戦へもつれ込んで行きました。

忍術で強者を翻弄

合戦の最中、足利軍は鈎(まがり)と呼ばれる地に本拠を構え、六角征伐の指揮をとる傍ら、幕府としての政務もそこで行うようになっていました。

・・ある夜、足利義尚が滞在する館に突然、ナゾの煙が立ち込めます。当然、見張りの兵は不審に思いますが、出どころが分からないまま、それはどんどん濃くなって行きました。

「な、なんじゃコレは。なにごとじゃ?」ついにはすぐ近くさえも見えなくなってしまいますが・・そうした中とつぜん目の前に人影が現れ、謎の問いかけをしてきます。

「春に咲く花といえば?」

「な、なに。いったい何の話をして・・うぎゃあ!」

見張り兵は次の瞬間、床に倒れ込んで息たえていました。これは少数の精鋭忍者による奇襲でした。

彼らは館に忍び込むと特殊な薬品を使い、煙を充満させました。とはいえ自分達も視界を封じられますから、合言葉を決めておき、答えられない相手は敵と見なして、一瞬で仕留めるという算段です。

しかし、さすがに義尚も当時の最高権力者ですから、館には多数の手練れが警固しています。近衛兵らが援軍に駆けつけると、多勢に無勢となった忍者たちは撤退しました。

ただ甲賀側が主張する一説によれば、義尚はこの時の奇襲で手傷を負ったとも、言われています。はたしてそれが原因となったのか、この六角氏討伐の最中にとつぜん死去、享年25歳という若さでした。

もちろん忍者たちにとって情報戦はお手のものです、自分たちの戦果を喧伝するために、そのように広めた可能性もあります。一般的に義尚はこの頃、急にたくさんの酒を飲み出し、脳溢血で倒れたとも言われますが・・幕府側も、もし忍者に負わされた手傷で、将軍が死去したとあっては示しがつきません。

そのように話を作って公表した可能性もあり、真実は不明な点が多々ありますが、とにかく総大将の死去は事実なので、こうなっては戦いの続行はできません。

幕府軍は征伐を諦めて退却、その後に本拠を取り戻した六角氏は防衛に成功し、それから何十年にもわたり、周辺地域の支配者として君臨したのでした。

日本中に知らしめた忍者のチカラ

六角軍との連携であったとはいえ、足利将軍の討伐軍を撃退した甲賀の名は、日本中に轟きました。まさに忍者のチカラを世に知らしめる、鮮烈なデビュー戦となったのです。

反対に室町幕府は威光を取り戻すことが叶わず、乱世はますます深まって行くのですが、戦国大名たちはこうした忍者のチカラに、一目置くようになって行きます。

それにしても“鈎(まがり)の陣”のように、忍者たちは何故これほどまでの戦闘力を発揮したのでしょうか。

とくに有名な甲賀や伊賀の里は、今でいう滋賀県や三重県に位置しましたが、全国的に見れば京都にかなり近い位置です。しかし地形的には街道から外れた山奥にあり、権力者の支配をあまり受けず、独自の政治を行っていました。

その分、里は自分たちの力で守り続けなければならず、たとえ相手が手だれの武士たちや権力者であっても渡り合える特殊技能を、つねに磨いていたのです。

のちに覇を唱えた信長は六角氏を撃破していますが、このとき徳川家康が裏で甲賀忍者たちを懐柔し、彼らとの対決を回避したと言います。その後、織田軍が伊賀忍者と直接対決した際には、信長が勝利はしていますが、大苦戦を強いられました。

このように少人数で強者を翻弄する忍者たちの実力は本物であり、何より現代人の視点でみれば、ロマンを感じずにはいられません。

おそらく歴史作品を始めとして、これから何年先の世も大勢の人々を魅了して行くのではと、そのような気がしてなりません。

歴史・文化ライター

■東京都在住■文化・歴史ライター/取材記者■社会福祉士■古今東西のあらゆる人・モノ・コトを読み解き、分かりやすい表現で書き綴る。趣味は環境音や、世界中の音楽データを集めて聴くこと。鬼滅の刃とドラゴンボールZが大好き■著書『アマゾン川が教えてくれた人生を面白く過ごすための10の人生観』

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