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藤田菜七子に負けないで!! 異国で頑張る日本人女性騎手と彼女の両親の間に18年間秘められたある物語

平松さとしライター、フォトグラファー、リポーター、解説者
オーストラリアで頑張る日本人女性騎手の太田陽子

 女性騎手は何も藤田菜七子ばかりではない。もちろん現在、JRAでは彼女だけだが、実は海の向こうで頑張る日本人女性騎手もいるのだ。

 以前、ある競馬雑誌でその女性のことを取り上げたところ大きな反響があったので、改めてこちらでも紹介させていただくことにした。

 名前は太田陽子。オーストラリアで騎手をする彼女が日本を発ったのは22年も前のこと。

 「一所懸命にやるなら行ってきなさい」

 父親はそう言って送り出してくれた。

 しかし、その後、20年近くも経ってから、思いもしなかった事実を知らされた。太田は何を知らされたのか。そんなエピソードを紹介しよう。

言葉に関しては自分では「うまくない」と謙遜するが、馬主や調教師とのやり取りはもちろん、私生活も全て英語で行っている。
言葉に関しては自分では「うまくない」と謙遜するが、馬主や調教師とのやり取りはもちろん、私生活も全て英語で行っている。

異国で騎手となり大活躍

 1978年6月17日、父・禎一、母・幸子の下、東京で生まれ2人姉妹の妹として育てられた。10歳の時、親の仕事の都合で引っ越した先が中京競馬場の近くだった。ある日、父親にそこへ連れて行ってもらった。

 「“誘導馬に乗る女性”と“レースの蹄音”を格好良く感じました」

 小学校の卒業アルバムには「好きなタレント→オグリキャップ」「尊敬する人→武豊」と書くほど競馬に魅了された。

 高校は馬術部のあるところを選び、入部。

 「最初は1日に5回くらい落とされた」と言うが、3年になる頃にはインターハイに出場できるまでになった。

 「そこでアイルランドの馬と出会い、海外を意識するようになりました」

 97年。高校卒業時のことだ。雑誌にオーストラリアの競馬学校の広告が掲載されていた。騎手になるためそこへ入学したい旨を両親に伝えると、快く了承。送り出してくれた時の父親の言葉が冒頭の「一所懸命やるなら行ってきなさい」というモノだった。

 オーストラリア・クイーンズランドの養成学校に通うと、1度は校長から「体重管理が厳しいから辞めた方が良い」と諭された。しかし、送り出してくれた両親のことを思うとおいそれとは辞められなかった。2年後、無事に卒業し見習い騎手免許を取得できた。

 「ただ、所属先の調教師の許可がなかなかおりず、デビューまでまた時間を要しました」

 ようやくデビューできたのが99年。9戦目には初勝利を挙げた。

 「すぐ日本へ電話をして両親に報告すると喜んでくれました」

 2~3年目には50勝もした。

 「自分でも驚くほど勝てました。ただ、ビザの関係で一時ライセンスが切れたので、シドニーに移動すると、騎乗依頼が減ってしまいました」

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苦しい時期を乗り越えて日本でも騎乗

 そんな苦しい時に助けてくれる人もいた。2004年には1人の調教師に請われてヴィクトリア州へ移籍。初めて左回りの競馬場での騎乗となったが、初騎乗初勝利をマークした。

 さらに07年には現在も暮らすクランボーンへ移籍。騎手を引退した時の事も考え、09年にはマッサージ師の資格を取得し、騎手をしながらマッサージ師としても働いた。

 「だけど、他の仕事をしてみて改めて馬が好きだと気付きました」

 再び騎手に打ち込んだ。

 そんな太田に1人の男性との出会いがあった。98年メルボルンC勝ち馬のジェザビールを育てたB・ジェンキンス厩舎で働いている時の同僚、シェーン・マカスカだ。シェーンはその後、調教師免許を取得して独立。太田は彼の厩舎へ転厩した。

 13年には思わぬ誘いがやってきた。

 「水沢競馬で乗せていただけることになり、一時帰国しました。人生で一番というくらいの経験ができました。菅原右吉調教師始め、関係者の皆様に信頼していただけたことで自信を持って競馬に乗れることを知れたんです」

インタビューに答える太田陽子
インタビューに答える太田陽子

18年目に知らされた衝撃の真事実

 現在は再びオーストラリアのマカスカ厩舎へ戻り、共同調教師のような形で騎手との"二刀流"をこなしている。

 「シェーンとは馬のことを考えて、毎日、喧嘩していますが、母に言わせると『喧嘩できる人がいるだけでも幸せ』だそうです」

 その母から衝撃的な事実を知らされたのは海外で暮らして18年目。今から4年前の14年のことだった。97年に冒頭のセリフと共に見送ってくれた父が、実は太田の海外行きを『モノ凄く反対していた』と聞かされたのだ。

 「『陽子には普通の人生を送ってもらいたい』と言っていたそうです。でも、母が『親の意思で娘の人生を後悔させるのはイヤ』と説得してくれたことで最終的には父も納得したそうです」

 この4月に久しぶりに勝利した太田は「現在もこうして馬の仕事に打ち込めているのは両親のお陰」と言う。

 そんな彼女の現在の目標は「調教師免許の取得と、騎手としても大きいレースを勝ちたい」ことだと語る。

 もちろんそれらが容易でないのとは痛いほど分かっている。しかし、「いつ帰ってきても良いんだよ」と言ってくれる両親がいるから、彼女は遠い異国でも笑顔で頑張れるのだった。

オーストラリアならでは!の勝負服に身を包む太田。こうやって赤道の向こうで頑張れるのも日本で応援してくれる両親のお陰だ。
オーストラリアならでは!の勝負服に身を包む太田。こうやって赤道の向こうで頑張れるのも日本で応援してくれる両親のお陰だ。

(文中敬称略、写真提供=平松さとし)

ライター、フォトグラファー、リポーター、解説者

競馬専門紙を経て現在はフリー。国内の競馬場やトレセンは勿論、海外の取材も精力的に行ない、98年に日本馬として初めて海外GⅠを制したシーキングザパールを始め、ほとんどの日本馬の海外GⅠ勝利に立ち会う。 武豊、C・ルメール、藤沢和雄ら多くの関係者とも懇意にしており、テレビでのリポートや解説の他、雑誌や新聞はNumber、共同通信、日本経済新聞、月刊優駿、スポーツニッポン、東京スポーツ、週刊競馬ブック等多くに寄稿。 テレビは「平松さとしの海外挑戦こぼれ話」他、著書も「栄光のジョッキー列伝」「凱旋門賞に挑んだ日本の名馬たち」「世界を制した日本の名馬たち」他多数。

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