小牧が園田に戻る事になった経緯と、引退を踏みとどまらせた武豊の行動とは?
心に刺さったレジェンドのひと言
3月中旬、小牧太は園田時代の師匠である曾和直榮元調教師と会食をした。
その席で「最近は乗り鞍が減り、当然、勝つ事もままならない」とこぼすと、師匠が返した。
「園田に帰ってくれば良いじゃないか……」
馬主で、同席していた師匠の息子も続けて言った。
「僕の馬に乗ってください」
「ここ何年か引退も考えていた」という小牧が述懐する。
「その時は冗談半分でしたが、直後に交流競走での騎乗依頼が入りました」
滅多にない園田での依頼がこのタイミングで舞い込んだ事に奇跡を感じた。そこで園田側に連絡を入れ「何頭でも乗ります」と告げた。
「慌てて園田時代の勝負服を引っ張り出したのですが、糸がほどけて着られる状態ではありませんでした」
すると、長女のひかりさんがしかるべき場所に連絡をし、新調してくれた。
また、その日のメインレースであるネクストスター西日本に高知の調教師である田中守が管理馬リケアサブルを送り込んでいる事が分かると、すぐ本人に連絡を入れた。
「彼は騎手時代の同期なので『乗せてもらえないか?』と直談判をしました」
すると翌日、承諾の返事がきた。
「しかもオーナーが『馬主服ではなく、小牧さんの騎手服で乗ってください』とおっしゃってくれました」
こうして小牧は3月28日の園田で6鞍に騎乗。すると、ネクストスター西日本を優勝した。
「ファンが喜んでくれたし、何よりも久しぶりに勝てたのが嬉しかったです」
そして、冒頭で記した師匠との会話と共に、ある出来事が思い出された。
「熊ちゃん(熊沢重文元騎手)ら何人か辞める騎手の合同送別会を行なった時でした。豊君が近寄って来て、こそっと『小牧さんは辞めたらあかんで』と言ったんです」
「豊君」とは勿論、武豊。引退も考えていた小牧の心に、この言葉が刺さった。
「そんな時に久しぶりに勝つ嬉しさを味わえたので、園田で現役続行も良いと考えるようになりました」
そんな折り、再び奇跡が起きた。すぐにまた園田での騎乗依頼が舞い込んだのだ。
「JRAでは週末に1、2頭しか乗れない感じが続いていたので、試しに沢山乗れるか試してみようと考え、騎乗馬を探してもらいました」
するとマックスの8頭、集まった。
「騎乗するとしんどくはあったけど、大丈夫でした」
これが、園田復帰へ向けた転轍機がガチャリと音を立てた瞬間だった。
憧れの彼を追うように中央へ
1967年9月生まれで現在56歳の小牧。馬とは無縁の鹿児島の家庭で育った。「騎手候補生を探している」という話を親戚が持ってくると「体の小さい自分に合っている」と思った。そこで中学3年の時、牧場で働いてみた。
「馬に蹴られたり、噛まれたりして『これは無理』と、母親に泣きつきました」
すると、普段は怒る事のない父親が烈火の如く怒った。
「『男が1度決めた事を簡単に諦めるな!!』と無茶苦茶叱られました」
翻意し、85年、園田で騎手デビュー。その後、不動のリーディングの座に上り詰めた。
武豊とは93年、ワールドチャンピオンシップの前身にあたるワールドスーパージョッキーズシリーズで競演したのを機に、交流が出来た。
「中央の大きな競馬場にも目を奪われたし、何よりも同世代で憧れのジョッキーである豊君と一緒に乗れたのが夢のようでした」
だから地方からJRAへ転身する制度が出来ると、飛びついた。
最も悔しい出来事
「2004年、36歳での中央入りで、全く環境が変わるのに、妻は何も言わずについて来てくれました」
ただ、それは必ずしも順風満帆な船出ではなかった。
「なかなか馴染めず、調教も思ったほど乗せてもらえないので、毎朝、スタンドで新聞記者と話してばかりいました」
そんな時、手を差し延べてくれる男がいた。地方所属の時から、機会があれば乗せてくれた橋口弘次郎(当時、調教師)だった。
「橋口先生が『うちで乗ってみては』と言ってくださり、エージェントやオーナーも紹介してくれました」
お陰で一定の乗り鞍を確保出来ると、08年、レジネッタを駆って桜花賞(GⅠ)を制覇。翌09年には橋口厩舎のローズキングダムで朝日杯フューチュリティS(GⅠ)を優勝。GⅠ2勝をあげた。
「ローズキングダムは最初に跨った時点で格が違うと感じ、朝日杯は自信満々で乗れました」
翌10年のクラシック戦線。皐月賞(GⅠ)は4着だったが……。
「モタれたり掛かったりしながらも1馬身半ほどしか負けませんでした。左回りで大きな東京に変わるのは良いと思ったので、ダービーでは巻き返せると考えていたし、勝ちたいと思いました」
「ダービージョッキーになりたい」という思いより、もっと大きな勝ちたい理由があった。
「この時点で橋口先生はまだダービーを勝っていませんでした。だから何としても勝って恩返しをしたいと考えていました」
ところが、思わぬ形でその願いはかなわぬものとなった。直前の週に他馬の進路を妨害。騎乗停止となり、大一番での騎乗はかなわなくなったのだ。
「ガックリして田舎へ帰り、テレビ観戦しました。騎手人生の中で最も悔しい出来事でした」
長男をジョッキーに
「石田ひかりさんが好き」で命名した長女のひかりさんに続き、96年のクリスマスイブには「妻が画数等を調べて名付けた」という長男・加矢太が誕生。加矢太は中学3年から2度、JRAの騎手試験を受けた。
「2度目は一次を突破しました。二次試験前には減量に苦しんでいたので、一緒に汗取りをしたけど、最後は泣きながら『もう無理』と言って、辞退しました」
「学校行く前から減量に苦しむようでは諦めて正解」と感じた父・太は、続けて言った。
「彼には乗馬があったのが救いでした」
馬術では全日本障害馬術大会や全日本障害飛越選手権等を優勝した。
そんなある日の事だった。加矢太を連れて銭湯へ行った太が「あれ?」と思う出来事があった。
「体重を量ったら自分より加矢太の方が軽かったんです。なら、もう1度、騎手試験を受けてみては?と勧めました」
最初は「無理、無理」と言っていた加矢太だが、何度も勧めるうちに「やってみようかな……」という返事が返ってきた。
その結果、22年、騎手試験に合格。変わった経歴の障害騎手が誕生すると、父は笑みを見せた。
「新たな楽しみをもらえました」
新たなる門出
JRA入りした長男と反対に、JRAを出て行く決心をした父は、地方の騎手試験を受けるために「酒を断ち、猛勉強をして、トレーニングでもう1度、体力強化を図った」。結果、一次の学科、二次の面接試験を共に合格。史上初めてJRAから地方へ転身するジョッキーとなった。
「母は『また乗れる姿が見られるのね』と喜んでくれました。この世界に誘ってくれた父は10年ほど前に他界したのですが、JRAでGⅠを勝つ場面や乗るシーンを見せられたし、今回も喜んでくれていると思います。
妻や子供達には『怪我のないようにぼちぼちやってください』と言われました」
また、橋口元調教師からも連絡が入ったと続ける。
「橋口先生は何かあるごとに連絡をくれるのですが、今回も『楽しみにしています』と言っていただけました」
7月21日にはラストライドを白星で飾ると、後輩やファンが盛大に送り出してくれた。
「JRAを辞める事で毎週顔を合わす競馬場のベテランスタッフとか、新人の頃から知っている若い子らと会えなくなるのは淋しいです」
そう言うと、憧れのレジェンドの名をあげ、悲しそうな表情で語った。
「今回の件を真っ先に伝えたのが武豊君でした。同年代で憧れて、彼がいたからここまで頑張って来られました。ワールドスーパーで初めて一緒に乗った日の事は今でもよく覚えているし、服装を真似したり、車も同じモノを買って乗ったりしました」
JRA入りしたばかりで周囲と馴染めない時にも「豊君が気を使って飲みに連れて行ってくれました」と言うと、更に続けた。
「今後、一緒に乗る機会が減るのは残念ですが、豊君と沢山乗れたのは良い思い出です」
もっとも、ノスタルジックに浸ってばかりもいられない事を、大ベテランは知っている。改めて表情を引き締めると誓うように言った。
「ただ、淋しがってばかりもいられません。曾和先生が元気なうちにもう1度、喜ばせてあげたいし、何と言ってもただ園田へ行くだけではダメで、しっかり活躍しないといけないと考えています。ちゃんと準備をして、最初から結果を出せるように頑張ります!!」
園田での再デビューは8月14日。多くの人達が、彼の新たなる門出に注目している。
(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)