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WBAライト級タイトルマッチで生じたリング禍

林壮一ノンフィクション作家/ジェイ・ビー・シー(株)広報部所属
AP/アフロ

 WBA/WBC/WBOスーパーミドル級タイトルマッチ、サウル・”カネロ”・アルバレスvs.エドガー・ベルランガ戦を取材するため、ラスベガスを訪れている。ネバダ州民だった頃から、何度当地に足を運んだか分からないが、レンタカーでシーザース・パレスの前を通る度に時の流れを感じる。

写真:USA TODAY Sports/ロイター/アフロ

 かつて、シーザース・パレスは、数々の歴史的ボクシングマッチのホストとなった。1976年1月のジョージ・フォアマンvs.ロン・ライル、1978年初頭のロベルト・デュランvs.エステバン・デ・ヘスス、1980年10月のモハメド・アリvs.ラリー・ホームズ、1983年のマービン・ハグラーvs.ロベルト・デュラン、1987年のマービン・ハグラーvs.シュガー・レイ・レナード……など、挙げればキリがない。

 シーザース・パレスが出資し、およそ2万人を収容するネバダ州立大学ラスベガス校のバスケットボール場、トーマス&マックセンターを会場とすることもあったが、頻繁にホテル内に特設リングを設けては、ファンを魅了した。15,356席しか作れないため、メガ・ファイトは即、完売となった。

今年2月のスーパーボウルの際、ライトアップされたシーザース・パレス
今年2月のスーパーボウルの際、ライトアップされたシーザース・パレス写真:USA TODAY Sports/ロイター/アフロ

 1993年11月6日、リディック・ボウvs.イベンダー・ホリフィールドの第7ラウンドに、パラシュート男が空から乱入し、試合を中断させるというハプニングが起きる。パラシュート男は単なる奇人だったが、この件は、野外リングの危険性を改めて問うこととなった。

マンシーニ
マンシーニ写真:Shutterstock/アフロ

 1982年11月13日、シーザース・パレスの野外特設リングでWBAライト級タイトルマッチが催された。ラスベガスの灼熱の太陽がリングに照り付けるなか、チャンピオンのレイ・マンシーニと挑戦者の金得九は、激しく打ち合う。

 とはいえ、技術の差は大きく、金はダメージを溜めていく。14ラウンドに力付き、KO負け。倒れたまま起き上がれず、担架でリングを降りる。昏睡状態が続くなか脳死と判定され、4日後に生命維持装置が外された。

 WBAは安全面に問題があったとし、世界タイトルマッチを15ラウンド制から12ラウンドに変更。他団体もそれに倣うようになる。

写真:REX/アフロ

 リング禍は、マンシーニの心も蝕み、戦うことが困難となった。

 「私の父は1940年、1941年、そして1942年初頭まで世界ランキング1位のプロボクサーでした。1942年2月にサミー・アンゴットの持つ世界タイトルへの挑戦が決まっていたのです。が、1ヵ月ほど前に徴兵され、試合は流れました。

 何年も戦い、人生のすべてを注ぎ込んで、ついに世界戦――すべてのファイターの夢――が決まったというのに、タイトルマッチのリングにも上がれずに生きる糧を失ってしまったことは、父にとって大きな痛手でした。父がそれに触れる際、決して表に出さないように努めていますが、苦しんでいる様子が見て取れます……。

 それが私が戦う理由です。もし父が世界チャンピオンだったら、私はとても誇りに感じたでしょうし、決してファイターにはならなかった。タイトルを獲れたら、父に捧げます」

 世界チャンピオンになる前、マンシーニが語った言葉だ。シーザース・パレスを見る折、元WBAライト級チャンプの発言が思い起こされる。

ノンフィクション作家/ジェイ・ビー・シー(株)広報部所属

1969年生まれ。ジュニアライト級でボクシングのプロテストに合格するも、左肘のケガで挫折。週刊誌記者を経て、ノンフィクションライターに。1996年に渡米し、アメリカの公立高校で教壇に立つなど教育者としても活動。2014年、東京大学大学院情報学環教育部修了。著書に『マイノリティーの拳』『アメリカ下層教育現場』『アメリカ問題児再生教室』(全て光文社電子書籍)『神様のリング』『世の中への扉 進め! サムライブルー』、『ほめて伸ばすコーチング』(全て講談社)などがある。

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