晩年はあまりに不遇だった。藤原伊周の無念すぎる最期とは?
今回の大河ドラマ「光る君へ」では、藤原伊周が無念の思いを抱きつつ、この世を去った場面だった。伊周の生涯を振り返りつつ、その最期を紹介することにしよう。
伊周は摂政、関白を歴任した道隆の子として誕生し、21歳という異例の若さで内大臣に就任した。道隆は権力者だったので、その恩恵を受けたのである。その地位は、おじの道長を超えるものだった。
しかし、道隆が亡くなると、道兼があとを継いだが、すぐに病没した。後継者の候補は、伊周と道長が有力だったが、内覧の座を勝ち取ったのは道長だった。以後、2人は対立したのである。
長徳の変(伊周・隆家兄弟の従者が花山法皇の衣の袖を射抜いた事件)により、伊周は失脚し左遷となった。その後、伊周は赦されて帰京したが、もはや往時のような威勢はなくなっていたのである。
妹の定子(一条天皇の中宮)は長徳の変のショックで髪を切ってしまい、それが出家したものとみなされた。のちに、定子は敦康親王を産んだが、若くして亡くなってしまったのである。
失脚後の伊周の評判は、決して良いものとは言えなかった。道長が御嶽詣でをした際、伊周は刺客を遣わせて、道長を暗殺しようとしたという。これは噂に過ぎなかったが、そのような目で見られていたのだろう。
彰子が敦成親王を産んだ際、伊周は2人を呪詛したという。伊周は敦康親王が将来天皇になれば、復権の可能性があったが、万が一、敦成親王が天皇になると、その可能性がセロに等しくなる。結局、伊周は赦されたが、その心は荒んでいたに違いない。
寛弘7年(1010)正月28日、伊周は病没した。享年37。伊周の死因は、飲水病だったといわれている。飲水病とは糖尿病のことで、父道隆の死因も同じだった。道長も飲水病に苦しめられたので、藤原家は糖尿病の家系だったといえよう。
死が迫った伊周は2人の娘を呼び、「きちんと宮仕えをして、親の名を汚すようなことをしてはならない」と厳命した。子の道雅には「人に追従して生きるぐらいなら出家せよ」と遺言したという。伊周の死後、住んでいた室町邸は荒れ果てたと伝わる。