上杉謙信が内通を疑い、家臣を死に追いやった疑惑の真相とは?
上杉謙信と言えば名将として知られるが、家臣を死に追いやった疑惑があるので、それらについて考えることにしよう。
謙信が長尾為景の子として誕生したのは、享禄3年(1530)のことである。なお、謙信は改名を繰り返すが、煩雑さを避けるため「謙信」で統一する。謙信が兄の晴景に代わって家督を継いだのは、天文17年(1548)のことである。
天正3年(1575)12月、謙信は越中国水島に出陣した際、重臣の柿崎景家を討ったという。景家は利家の子として、永正10年(1513)に誕生した。数々の合戦で軍功を挙げた名将でもある。なぜ、景家は謙信により、死に追いやられたのだろうか?
後世に成った『景勝公一代略記』によると、景家は織田信長と内通しているとの風聞が流れ、その噂を信じた謙信は景家を死に追いやったというのである。その噂とは、どういうものなのか?
景家が馬を馬市に売りに出すと、信長は越後の馬の良さを知っていたので、高値で購入した。ところが、景家は謙信に馬の売買の事情を報告していなかったので、直接、信長に馬を売ったと誤解された。これが内通と疑われたのである。
しかし、この説については、すでに疑問が示されている。そもそも天正3年(1575)の時点において、謙信と信長は対立していなかったので、時系列的におかしいのである。また、馬の一件についても、裏付け史料がなく信が置けない話である。
片桐昭彦氏によると、天正5年(1577)11月7日、景家と晴家の父子は謙信に謀反を起こし、処刑されたという。景家・晴家父子は謙信の養子の景虎(北条氏康の子)の側近であり、親北条派だった。しかし、謙信は養子の景勝(長尾政景の子)を後継者に考えていたようだ。
そこで、危機感を抱いた景家・晴家父子は景虎を擁立しようとし、謙信に反旗を翻したと指摘する。景家・晴家父子は支持する景虎が家督を継げないと考え、謀反を起こしたということになろう。
主要参考文献
片桐昭彦「上杉謙信の家督継承と家格秩序の創出」(『上越市史研究』10号、2004年)。