絶頂期にあった豊臣秀吉が盛んに耳削ぎ、鼻切りを行った理由とは?
豊臣秀吉と言えば、盛んに耳削ぎ、鼻切りを行ったことで知られている。テレビドラマでは明るくひょうきんに描かれることが多い秀吉は、なぜそんな残酷なことを行ったのか考えてみよう。
天正17年(1589)2月、聚楽第(秀吉の居城)の鉄門に落書が書かれた。落書とは政治や社会だけでなく、個人(主に権力者)をも風刺・批判した文書のことで、あえて人目に付きやすい家の門や塀に貼り付けられた。建武政権を批判した「二条河原落書」が有名である。
内容は秀吉を批判したものだったが、犯人を特定することができなかった。激怒した秀吉は十分な警備をしなかった責任を問うべく、聚楽第の門番衆7人を処刑したのである。その処刑の方法は、以下のとおり極めて残酷だった。
『鹿苑日録』などによると、初日は門番衆の鼻を削ぎ、2日目は耳を切り、3日目は逆さ磔にするという極めて残虐な措置だった。秀吉は犯人が見つからなかったので、代わりに失態を犯した門番衆を残酷な刑に処し、見せしめにしたのだろう。
慶長元年(1596)12月、長崎において、秀吉は宣教師・信徒など26人を処刑した(「二十六聖人殉教事件」)。天正15年(1587)、秀吉はキリスト教の布教を禁止すべく、伴天連追放令を発布していたが、本格的な宣教師の弾圧を行ったのである。
その方法は極めて残忍で、京都で捕縛された宣教師らは、左右の耳、鼻を削がれたと伝わっている(『義演准后日記』など)。その後、彼らは雑車(ぞうぐるま:雑用に使う車)に乗せられると、罪人のように京都市中を引き回しにされた。
それから約1ヵ月を掛けて、宣教師らは長崎に送られ処刑されたのである。秀吉は宣教師らを処刑する予定だったが、それではインパクトが弱い。宣教師らに残酷な鼻削ぎと耳切りを行うことにより、人々への見せしめにしたと考えられる。
支配者が法を犯した者などを処刑にすることは、決して珍しくない。しかし、秀吉は効果やインパクトを考え、鼻削ぎと耳切りを行い、人々への見せしめにしたと推測される。