Yahoo!ニュース

平安時代の日本を恐怖に陥れた刀伊の入寇とは?その経緯を探る

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
大宰府政庁跡。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「光る君へ」では前回と今回にわたり、刀伊の入寇が描かれている。平安時代の日本を恐怖に陥れた刀伊の入寇とは、いったいどんな出来事だったのか考えることにしよう。

 寛仁3年(1019)3~4月の間、刀伊が大宰府管内に攻め込んできた(刀伊の入寇)。刀伊とは当時の高麗が夷狄を称して呼んだもので、沿海州地方に住んでいた女真族のことを意味する。女真族は、たびたび高麗に攻め込み、略奪を行っていた。

 寛仁3年(1019)3月、女真族は50余艘の船に乗って、対馬国(長崎県対馬市)、壱岐国(長崎県壱岐市)に攻め込んだ。その勢いに乗じて、女真族は筑前国怡土郡、志麻郡、早良郡(福岡県北部)などで蛮行を行ったのである。

 女真族は4百数十人の人々を次々と殺害すると、千数百人の人々を捕縛した。それだけでなく、民家に火を放つと米を奪い、犬や牛馬を殺して口にした。壱岐守だった藤原理忠は殺害され、配下の者も殺されたので、もはや成す術がないように思われた。

 当時、大宰府で権帥だったのは、藤原隆家である。長和元年(1012)、隆家は目を怪我したことで、屋敷に籠るようになっていた。しかし、唐に目を治す名医がいると聞き、長和3年(1014)に希望して大宰府に赴任したのである。

 隆家は京都に刀伊の侵攻を報告する一方で、警固所に大宰府官人を遣わして防戦に努めた。刀伊は警固所に押し寄せ、筥崎宮(福岡市東区)に放火しようとしたが、その目論見は失敗に終わったのである。

 刀伊は対馬などに攻め込んでから、約1週間で撤退を余儀なくされた。隆家は大宰府官人だけでなく、現地の豪族の協力により、見事に刀伊を撃退したのである。ところが、刀伊の入寇の撃退後には、恩賞をめぐってひと悶着があった。

 朝廷は、隆家が追討の命令を下す前に刀伊と戦ったことを問題視し、恩賞を与える必要はないとの判断を下した。これに対して、藤原実資は恩賞を与えるべきだと主張し、最終的に与えることになったのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

渡邊大門の最近の記事