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アパホテル問題の核心~保守に蔓延する陰謀史観~

古谷経衡作家/評論家/一般社団法人 令和政治社会問題研究所所長
アパグループ東京本社ビルの外観(APA赤坂中央ビル)(写真:ロイター/アフロ)

・アパ=右、は業界内で常識

大手ホテルチェーンAPA(以下アパ)が、運営する同ホテルの客室に、同ホテル代表の元谷外志雄氏(PN・藤誠志)による「南京大虐殺の否定」などのオピニオン書籍(『本当の日本の歴史 理論近現代史学2』)が置かれたことが、大きな問題になっている。中国側の「炎上」に対し、当のアパは「本は(客室から)撤回しない」と断固とした主張を自社サイトに掲載した。

ことの経緯はすでに報道されている記事を参照されたい「アパホテルの利用中止要求 中国政府、国内旅行業者に」(2017年1月24日 朝日新聞)中国SNSで炎上したアパホテルが見解 「本は置き続ける」「予約に変化なし」(2017年1月17日 ITmedia ニュース)

結論から言って、私企業であるアパが元谷氏の著書を同ホテル室内に置くことは、言論の自由であり問題はない。仮に元谷氏が左翼・リベラル思想の持ち主で、自社の客室に「憲法9条を世界遺産に」とか「大陸への侵略を子々孫々まで懺悔し続けるべし」という内容の書籍を設置したとしてもそれは許容されるべきである。まさに「私はあなたの意見には反対だ。しかし、あなたがそれを主張する権利は死守する」というヴォルテールの名言の適用が適当であろう。

更に元来アパグループが、2008年より懸賞論文「真の近現代史観」を主催していることや、私塾「勝兵塾」などの運営を通じて、保守界隈、保守言論界隈に「喰い込んで」いることは、少しでも保守界隈の事情に触れたことがあるものなら、誰でも知る「常識」といえることなのである。つまり私がこのニュースに触れた第一印象は「いまさら何を言っているのだ」というものである。「アパ=保守・右、元谷氏=保守界隈のパトロン」的性格は、すわ10年近く前からこの界隈で常識であった。それをいまさら「発見」され、問題視されるのは、やや遅きに失した「発見」のような気もする。

・問題の核心=コミンテルン陰謀史観

ところが私が指摘したいこの「アパホテル問題」の核心というのはこの部分ではない。アパホテルは1月17日に自社グループの公式サイトにて、問題になった件の元谷氏による書籍の一部を引用して、次のように反論を展開している。その一部を引用する。

日本を激怒させ国民党政府軍と戦争をさせる為に、中国保安隊によって日本人婦女子を含む二百二十三人が残虐に虐殺された「通州事件」や、「大山大尉惨殺事件」、更には、国民党政府軍に潜入していたコミンテルンのスパイである南京上海防衛隊司令官の張治中の謀略によって、上海に合法的に駐留していた日本海軍陸戦隊四千二百人に対して、三万人の国民党政府軍が総攻撃を仕掛けた第二次上海事変を起こすなど、中国は日本に対して次々に挑発を繰り返し、それまで自重し冷静な対応を取っていた日本も、中国との全面戦争を余儀なくされたのであり、不当に日本が中国を侵略したわけではない。(中略)そもそも既に南京を攻略した日本軍にとって、南京で虐殺行為をする理由はない。一方、通州事件や大山大尉惨殺事件、第二次上海事件などでの日本人に対する残虐行為には、日本軍を挑発し、国民党政府軍との戦争に引きずり込むというコミンテルンの明確な意図があったのである。

出典:アパグループ・客室設置の書籍について*一部筆者による要約あり、強調筆者

つまり元谷氏は、日中戦争は一連のコミンテルンによる陰謀によるものであり、日本側はむしろ被害者であった、と一貫して主張しているのである。コミンテルンとはソ連時代の「第三インターナショナル(共産党国際団体)」を指すが、この「コミンテルンの明確な意図」、つまり日中戦争の勃発と、そして日米戦争への進展はすべて「コミンテルンの陰謀」である、というニュアンスが元谷氏の著書の中に繰り返し強調されている。それが南京事件を否定する元谷氏の精神世界の根本になっている。

しかしこの「コミンテルン陰謀史観」というのは、何も元谷氏固有の思想ではない。日中戦争もひいては日米戦争(彼らは大東亜戦争と呼称したがる)は、すべて「コミンテルンによって引き起こされた謀略」であり、当時の日本はその被害者であるという史観は、元谷氏のみならず、この国の保守界隈、そしてその保守界隈の言説を無批判に信奉するネット右翼(保守)界隈には、もはや普遍的に通底する「正史」なのである。

要するに「アパホテル問題」とは、保守界隈に蔓延する「コミンテルン陰謀史観」の氷山の一角が、たまたまアメリカ人と中国人2名によるユーチューバーによって「発見」されただけで、その氷山の下には元谷氏と全く同じような「コミンテルン陰謀史観」を信じる人々の無数の群れが存在することが無視されていることにこそ、私は問題の根深さを感じるのである。

・田母神論文と陰謀史観

2008年、アパが主催する「真の近現代史観」懸賞論文の第一回「最優秀藤誠志賞」を飾ったものこそ、いわゆる「田母神論文」であり、その筆者・元航空幕僚長田母神俊雄が一躍時の人になった。田母神が書いた「論文」こそ、現在保守界隈に広く流布されている「コミンテルン陰謀史観」の根底を見事にトレースしたものとなっている。「論文」と銘打っておきながら、出典の引用箇所の明示が全くないこの田母神の論文を「論文」と呼んでよいのかは兎も角としても、当時の田母神の「論文」には、今回の元谷氏の「南京否定」の背景にある「コミンテルン陰謀史観」が、まったく同じ調子で登場する。

この日本軍に対し蒋介石国民党は頻繁にテロ行為を繰り返す。邦人に対する大規模な暴行、惨殺事件も繰り返し発生する。(中略)これに対し日本政府は辛抱強く和平を追求するが、その都度蒋介石に裏切られるのである。実は蒋介石はコミンテルンに動かされていた。1936年の第2次国共合作によりコミンテルンの手先である毛沢東共産党のゲリラが国民党内に多数入り込んでいた。コミンテルンの目的は日本軍と国民党を戦わせ、両者を疲弊させ、最終的に毛沢東共産党に中国大陸を支配させることであった。

出典:田母神論文(アパ公式サイト)、強調筆者

更に田母神は、「実はアメリカもコミンテルンに動かされていた」(同)などといって、日米交渉の「最後通牒(-実際にはそれ以前に日本は対米開戦を決意していたのだが)」たるハル・ノートの起草も、コミンテルンのスパイ分子によるものだと断定して、日中戦争から日米戦争までの15年戦争の流れの背景にあるものを一貫して「コミンテルンの陰謀」に求めている。田母神はその根拠として、以下3冊の書籍を「引用部分を示さないまま」に、列挙している。3冊の書籍とは「マオ 誰も知らなかった毛沢東(ユン・チアン)」、「黄文雄の大東亜戦争肯定論(黄文雄)」、「日本よ、”歴史力”を磨け(櫻井よしこ編)」である。

「コミンテルン陰謀史観」を信じた時系列は、元谷氏が先か田母神が先かは、鶏が先か卵が先かの堂々巡りと同じで不毛であるが、いずれにせよ元谷氏と田母神ははるか以前から「コミンテルン陰謀史観」なるものを共通して信奉し、そしていつしかこの「コミンテルン陰謀史観」は広く保守界隈と、それに寄生するネット右翼(保守)界隈にとって「正史」として広く受け入れられていく。

2016年に田母神は公選法違反で逮捕・起訴され、保守界隈内部での地位は揺らいだが、依然として元谷氏が自書の中で述べているのでわかる通り、「ポスト田母神」以降の保守界隈でも「コミンテルン陰謀史観」は「日本が中国を侵略したわけではない」ことの根拠として平然と用いられ、それが延伸して「日米戦争もコミンテルンの陰謀」と、あの戦争の肯定の根拠として広範に用いられているのである。

保守系言論人の言説を「オウム返し」する傾向が強いネット右翼(保守)の中にも、この「コミンテルン陰謀史観」は必ずと言ってよいほど頻出する精神世界である。日本はコミンテルンの謀略によって「嵌められた」被害者であり、よって南京事件も日本のイメージを失墜させるためにコミンテルンが計画した謀略だ、というのがその世界観の骨子である。これはつまり冒頭にあげた元谷氏の精神世界と全く同一といってよい。

・コミンテルン陰謀史観は正しいのか?秦郁彦氏による分析

はてさて、この「コミンテルン陰謀史観」とは歴史学的にはどの程度正しいといえるのだろうか。「コミンテルン陰謀史観」を、一刀両断のごとく喝破したのが歴史学者の秦郁彦氏である。秦氏はその著書「陰謀史観」(新潮社)の中で、田母神が2008年にアパの「真の近現代史観」論文の中で開陳した「コミンテルン陰謀史観」を「田母神史観」と命名し、以下のように鋭利にこの「史観」のトンデモ性を指摘している。

くだんの田母神論文は「ソ連情報機関の資料が発掘され…最近ではコミンテルンの仕業という説が極めて有力になってきている」と書いた。根拠としてあげられているのは、『マオ 誰も知らなかった毛沢東』のほかに『黄文雄の大東亜戦争肯定論』と櫻井よし子編『日本よ、「歴史力」を磨け』だが、後の二冊は『マオ』の受け売りだから、同じ周り灯篭を眺めたに過ぎないともいえる。(中略)田母神俊雄は「盧溝橋事件にしても、中国軍が最初に発砲したことは今では明らかになっている」と述べた後、「侵略どころかむしろ日本は戦争に引きずり込まれた被害者である」と断じる。さらに飛躍して「実は蒋介石はコミンテルンに動かされていた…目的は日本軍と国民党を戦わせ、両者を疲弊させ、最終的に毛沢東共産党に中国大陸を支配させることであった」と結論づけた。「シナ事変をはじめたのは中国側で、泥沼にひきづり込んだのはアメリカとイギリスでした」と論じる渡辺昇一史観と同工異曲かもしれない。因果関係を説明するのに、結果から原因へさかのぼる安直な論法だが、コミンテルン陰謀論者の間では珍しくない。蒋介石ばかりかルーズベルトや東条英機でさえも被害者に仕立てられるのだが、さすがに直取引は説得性が弱いと考えてか、側近や部下たちのシンパやスパイに踊らされたという構図にする例が多い。

出典:秦郁彦著『陰謀史観(新潮社)』P.158、P.170~171、一部書籍名を補足、強調筆者

この他にも秦氏は明確な歴史的根拠を分析して「田母神史観=コミンテルン陰謀史観」なるものをことごとく撃砕している。そして上記引用でも述べたように、田母神の根拠とした3冊の書籍は、ユン・チアンによる『マオ 誰も知らなかった毛沢東』(日本刊行2005年)の受け売り(黄文雄、櫻井よし子)であることを見抜いている。ユン・チアンによる『マオ 誰も知らなかった毛沢東』を黄氏や櫻井氏や或いは田母神がどのように「受け売りしたのか」の詳細な分析は「学問的に無意味」と考えて秦氏は記述していないが、あえて私が書くとすると、まず最初にユン・チアンの、

計画(上海事変)の首謀者が蒋介石ではなく、ほぼ間違いなくスターリンだった、という点である。(中略)スパイは張治中という名の将軍で、(中略)モスクワは国民党軍の高い位置にスパイを送り込もうという確固たる意志を持っていた。

出典:『マオ 誰も知らなかった毛沢東』戦争拡大の影に共産党スパイ P.341、一部要約あり

などがあり、それを黄(2006年)、櫻井(2007年)が追認していった、というのが時系列的に正しい説明であろう。そして2008年の田母神論文(2008年)と結実する。つまりユン・チアン(2005年)→1年後に黄、さらにその1年後に櫻井、そして3年越しに田母神と、この「コミンテルン陰謀史観」は培養されていったのである。

このような保守界隈で「正史」となっていったゼロ年代後半の「コミンテルン陰謀史観」の総決算が田母神論文であり、今回の「アパホテル問題」は、現在でも根強く残る、何ら歴史的根拠のないこの時期に培養された「コミンテルン陰謀史観」の残滓たる、「氷山の一角」なのである。

・素人でもおかしいと分かるコミンテルン陰謀史観

仮に歴史の素人でも、ソ連のスパイが毛沢東や蒋介石などを通じて日本を意のままに操り、やがてそれが日米戦争にまで進展するという歴史観は、裏返すと「ソ連のスパイに騙されて大戦争をするほど、当時の日本人は馬鹿だった」と言っているのに等しく、これこそ自虐史観の総本山のように思えるのではないか。「コミンテルン陰謀史観」を採用すればするほど、当時の日本や日本人は、ソ連のスパイに騙されて操られるくらい、馬鹿で愚鈍であったと自虐しているに等しいであろう。

1936年から1938年にかけて、ソ連はスペイン内戦に介入し、多数の共産党員や軍事顧問団をスペイン政府軍側に送った。しかし、ソ連が支援したスペイン政府軍は、反乱軍たるフランコ将軍に勝てなかった。あるいは1941年6月、独ソ不可侵条約を侵犯してドイツ軍がソ連領に殺到した。ソ連軍は散々蹂躙され、すわモスクワ陥落寸前にまで戦局は悪化した。コミンテルンが毛沢東や蒋介石を意のままに動かし、ひいてはルーズベルトまでを操って日本に戦争を仕掛けるように差し向けるほどの実力を持っているのだとしたら、どうしてフランコに勝てないのだろうか。どうしてドイツ軍に対して独ソ戦緒戦で完全敗北を重ねたのだろうか。このように「コミンテルン陰謀史観」とは、単純な教科書知識のみであっても、簡単に撃砕することのできる、歴史学的根拠の全くない、出鱈目・トンデモの類なのである。

問題は、このような何ら歴史的根拠のない陰謀論が、元谷氏をはじめ保守界隈に地下茎のように行き渡り、それに寄生するネット右翼(保守)をはじめ、多くの保守界隈の人々がいまだにこの「コミンテルン陰謀史観」を信奉しているということだ。今回の「アパホテル問題」は、単にアパホテルの経営者の個人的思想の開陳というお話ではなく、保守界隈に蔓延する「コミンテルン陰謀史観」から出発した「日本被害者史観」の培養、そして南京事件の完全否定や慰安婦の全否定などの、歴史的根拠のない「間違った」歴史観の先端が世界に露呈したという点だ。

・「史学」を名乗れぬトンデモ

本稿冒頭で述べた通り、たとえ間違いとはいえ、自らの信じる歴史観を本にまとめ、それを私企業が客室に置く行為は言論の自由である。しかし、その内容は到底「真の近現代史観」とか「理論近現代史学」などと、苟も「史学」を冠するには到底ふさわしくない俗流にも劣る、根拠なき「陰謀史観」に他ならないのである。糾弾されるべきなのはアパグループとか元谷氏ではなく、このようなトンデモ「陰謀史観」を正史として疑わず、そのまま界隈の常識として運用し続ける保守界隈全般の知的堕落に向かうべきではないだろうか。

なぜなら、すでに書いたように、仮に元谷氏の著作を客室から撤去したにせよ、この手の陰謀論は次から次へと、また別の場所で沸き起こるからである。誰かがこのような陰謀論の歴史学的根拠の無さを指摘しようにも「反日だ」「左翼だ」の一言で、逆に被糾弾者間の結束が強まるだけだからである。

すでに述べたように「コミンテルン陰謀史観」は、保守界隈に根深く浸透しており、専業作家ではない元谷氏は、すでに先行していた黄氏や櫻井氏の言葉を転用したに過ぎないと容易に推察できる。そしてその黄や櫻井すら、秦氏が鋭利に指摘したようにその「元ネタ」はユン・チアンの本にすぎない。まさに秦氏の指摘通り「同じ周り灯篭を眺めたに過ぎない」といえるのである。

秦郁彦氏は、陰謀史観の本質を次のように評している。

(陰謀史観にある)この種の矛盾や疑問を問いただしても、仕掛け人たちはびくともしない。論証をされても「参った」とは言わないし、予言が外れても平気で手直しするだけに終わる。読者も苦にしないどころか、逆に「トリック破り」を白眼視する傾向さえある。だからこそ、陰謀論と陰謀史観はいつの時代でも栄えていくのだろう。

出典:前掲書、P.248、括弧内筆者

第二、第三の「アパホテル問題」は、またすぐに発生するだろう。

作家/評論家/一般社団法人 令和政治社会問題研究所所長

1982年北海道札幌市生まれ。作家/文筆家/評論家/一般社団法人 令和政治社会問題研究所所長。一般社団法人 日本ペンクラブ正会員。立命館大学文学部史学科卒。テレビ・ラジオ出演など多数。主な著書に『シニア右翼―日本の中高年はなぜ右傾化するのか』(中央公論新社)、『愛国商売』(小学館)、『日本型リア充の研究』(自由国民社)、『女政治家の通信簿』(小学館)、『日本を蝕む極論の正体』(新潮社)、『意識高い系の研究』(文藝春秋)、『左翼も右翼もウソばかり』(新潮社)、『ネット右翼の終わり』(晶文社)、『欲望のすすめ』(ベスト新書)、『若者は本当に右傾化しているのか』(アスペクト)等多数。

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