Yahoo!ニュース

金正恩氏に賠償命令、金与正氏を刑事告発――韓国側の圧迫に対する北朝鮮の不気味な沈黙

西岡省二ジャーナリスト/KOREA WAVE編集長
ソウル中央地裁の判決文の一部。被告人の欄に金正恩氏の名が記されている(筆者加工)

 韓国の裁判所が北朝鮮の金正恩朝鮮労働党委員長に損害賠償を命じる判決を言い渡し、南北関係に不安定要素がまた一つ加わった。同様の方法により金委員長が相次いで提訴される事態が予想されるうえ、実妹の金与正党第1副部長に対する刑事告発の動きも不安定化に拍車をかける。朝鮮半島情勢は一段と不透明感を増してきた。

◇「北朝鮮は地方政府」

 韓国メディアの情報を総合すると、朝鮮戦争(1950~53年)で北朝鮮の捕虜となった韓国人男性2人が2016年10月、「休戦協定後も韓国に送還されず、北朝鮮内務省建設隊に配属されて強制労働をさせられたのは国際法違反」として、北朝鮮と金委員長を相手取り、損害賠償請求訴訟を起こした。ソウル中央地裁は今月7日、金委員長らに対し、2人にそれぞれ2100万ウォン(約189万円)を払うよう命じた。韓国の裁判所が北朝鮮や金委員長に賠償命令を出したのは初めてのことだ。

 国際法には、国家やそれに類する存在は他国の裁判権に服さないとの「主権免除」原則がある。だが原告側は「韓国の憲法上、北朝鮮は外国ではなく地方政府に似た政治団体であり、主権免除は適用されない」と主張し、判決もこれを支持した。また判決は、政治性の極めて高い問題を司法判断から外すという「統治行為論」の立場も取らなかった。

 2人は韓国軍兵士として参戦して捕虜となり、休戦後も約50年間にわたって抑留され、その間の1953~56年には炭鉱で強制労働させられた。地裁はこれらが、捕虜の人道的処遇を定めたジュネーブ条約に違反すると判断した。2人は2000年と01年、それぞれ脱北して韓国に戻った。

 北朝鮮は9日現在、反応を示していない。

 提訴当初、北朝鮮側に訴状を伝達する方法がなく、3年近く審理が進められない状態が続いた。地裁は昨年5月、ホームページなどに訴状を掲示。一定期間が過ぎれば書類が届いたとみなす「公示送達」を適用して審理に入った。

 韓国は日本と同様の三審制を採用しているが、北朝鮮側の控訴は考えにくく、判決が確定する可能性が高い。

 原告側は判決が確定すれば、北朝鮮国営朝鮮中央テレビの映像などの著作権料を差し押さえる形で賠償金を確保する計画という。著作権料は2004年に南北経済文化協力財団が設立されて以後、韓国側が北朝鮮の著作物を使用するたびに同財団を通じて料金を支払ってきた。対北朝鮮制裁が強化される直前の2008年まで8億ウォン(約7200万円)程度を送金、その後は裁判所に供託してきた。その額は2018年5月までに16億5200万ウォン(約1億5000万円)に上り、現時点では20億ウォン(約1億8000万円)程度になるものと推定される。

◇連鎖的な動き

 今回の判決を受け、同様の訴訟が連鎖的に起きる事態が予想される。

 訴訟を支援した団体によると、元捕虜は韓国で80人が確認され、57人が亡くなっている。生存者23人のうち2人が今回の原告となった形だ。同団体は残る21人や、57人の遺族の意思確認を経て、追加訴訟を進める方針という。

 ほかにも、韓国人の拉致被害者▽9000億ウォン(約806億円)余りの財産を残したまま開城工業団地を離れた入居企業▽金剛山観光50年事業権や土地開発権など9229億ウォン(約828億円)を投資した現代峨山▽韓国哨戒艦「天安」沈没事件(2010年)の犠牲者遺族▽約3万人に上る脱北者――らによる損害賠償請求の動きが加速するとの見方も出ている。

◇金与正氏には連絡事務所爆破に関連した容疑

 一方、7月9日には、南北共同連絡事務所の爆破に絡み、金与正氏と朝鮮人民軍の朴正天総参謀長を、刑法の爆発物使用や公益建造物破壊の疑いでソウル中央地検に告発する動きも出ている。

 金与正氏は6月13日の談話で爆破を予告して「行使権を総参謀部に渡す」と表明、その3日後に爆破は実行に移された。

 韓国の刑法によると、爆発物を使って身体・財産に危害を加えたり、公共の安全を乱したりした者は、死刑、無期懲役または7年以上の懲役となる。公益建造物を破壊した場合、10年以下の懲役、または2000万ウォン(約180万円)以下の罰金に処せられる。

 今回、地検に告発状を郵送したイ・ギョンジェ弁護士は「南北間の平和的な統一を成し遂げるためには、テロなど暴力的な手段は禁じられるべきだ」「この犯行を厳しく処理して、次の暴力を防ぐ必要がある」と訴えた。

 だが、刑事告発の有効性を疑問視する声が多い。そもそも金与正氏に対する捜査、証拠収集は極めて難しく、検察は起訴しない可能性が高い。仮に有罪判決が出ても、刑を執行する方法もない。

 イ・ギョンジェ弁護士は元検事。前韓国大統領の朴槿恵被告=収賄罪などで公判中=の親友である崔順実被告=収賄罪などが確定=の弁護人を一審から務めたことで知られる。

ジャーナリスト/KOREA WAVE編集長

大阪市出身。毎日新聞入社後、大阪社会部、政治部、中国総局長などを経て、外信部デスクを最後に2020年独立。大阪社会部時代には府警捜査4課担当として暴力団や総会屋を取材。計9年の北京勤務時には北朝鮮関連の独自報道を手掛ける一方、中国政治・社会のトピックを現場で取材した。「音楽」という切り口で北朝鮮の独裁体制に迫った著書「『音楽狂』の国 将軍様とそのミュージシャンたち」は小学館ノンフィクション大賞最終候補作。

西岡省二の最近の記事