家康の愛妾だったお愛の方の実家、西郷氏とは
24日の大河ドラマ「どうする家康」で焦点をあてられ、そのまま“ナレ死”してしまった徳川家康の愛妾お愛の方。
お愛の方は、三河の国衆西郷氏の家臣戸塚氏の娘である。幼い時に父が討死したため、母の実家である西郷氏のもとに身を寄せ、いとこの西郷義勝に嫁いで一男一女を儲けていた。しかしこの義勝も武田氏と戦って討死、寡婦となったお愛は再び西郷氏に戻り、のちに徳川家康に召し出されてその側室となった(寡婦になったのは2回ともいう)。
西郷氏から家康の側室となったため一般的には「西郷局」と呼ばれることが多い。お愛の方は若くして駿府で死去したが、2代将軍となる秀忠を産み、第109代明正天皇は曾孫にあたるなど、その子孫は繁栄した。
「西郷」とは何か
西郷氏は三河国の国衆である。その出自は清和源氏とも藤原姓で菊池氏の末裔ともいうがはっきりしない。
そもそも「西郷」とは「西の郷」という意味だ。「郷」は古代の地方行政組織の末端単位である。律令時代の「里」を改めたもので、当初は50戸で編成された。やがて「郷」の下に「村」が生まれ、「郷」は村の上位単位となっていった。いずれにせよ「郷」は固有名詞ではなく、様々な郷があった。「西郷」とは「西の方の郷」という意味で各地にあり、それに因む西郷氏も各地にあった。
中でも有名なのが肥前国高来郡の西郷氏で、藤原姓菊池氏の一族といい南北朝時代から活躍している。
三河西郷氏のルーツ
三河の西郷氏も肥前菊池氏の一族と伝わるが、異説も多い。南北朝時代に仁木義長に仕えて三河国八名郡嵩山(すせ、現在の愛知県豊橋市)に移り、月ヶ谷(嵩山)城に拠って三河守護代をつとめている。のち三河に進出してきた駿河今川氏に従った。
戦国時代、西郷正勝は今川義元に属して三河五本松城主(現在の豊橋市)となるが、永禄4年(1561)徳川家康方に転じたため、今川氏真に攻められて敗死した。孫の義勝も元亀2年(1571)三河に侵入した武田軍の秋山虎繁(信友)と戦って討死、この義勝の妻がのちのお愛の方である。
天正17年(1589年)5月19日、お愛の方は駿府で死去した。38歳とされるが異説もある。
西郷氏は、徳川家康の命で義勝のいとこ家員が継ぎ、家康関東入部の際には下総生実(現在の千葉市)で5000石を領した。子孫は旗本や会津藩家老となり、幕末の会津藩家老西郷頼母がよく知られている。