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【先取り「どうする家康」】松平家を弱体させた、松平信忠の大失態とは

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
徳川家康。(提供:アフロ)

 1月8日からNHK大河ドラマ「どうする家康」がはじまる。今回はドラマの内容を先取りすべく、松平家を弱体させた、松平信忠の大失態を取り上げることにしたい。

 松平長忠の没後、家督を継いだのが信忠である。信忠が誕生したのは、延徳2年(1490)のことである。長忠が存命中の文亀3年(1503)、信忠は連署して文書を称名寺(愛知県碧南市)宛に発給した。この頃には長忠が引退し、家督を譲ったと考えられる。

 永正3年(1506)、今川氏親が三河侵攻を開始した。その2年後には、伊勢宗瑞(北条早雲)が西三河に侵攻したが、信忠は撃退することに成功した(永正三河の乱)。しかし、信忠の戦いぶりは、決して史料上で確認できるわけではない。

 永正6年(1509)には、信忠が単独で称名寺に地子(地税)を寄進したことが確認できる。ただし、まだ長忠が存命だったので、その後見を受けながら、諸権限を行使していたのかもしれない。

 とはいえ、信忠は松平氏歴代のなかでも非常に評判が悪い。信忠には慈悲の心がなく、政治の面でも劣っていたという。『三河物語』によると、「武勇・情愛・慈悲」が備わっておらず、家臣や民の中には慕う者がいなかったとまで伝わっている。

 信忠は酒食に溺れて駄目になったと伝わるが、一説によると、それは病気によるものだったともいわれている。それゆえ松平氏一門は信忠から心が離れてしまい、それは土豪や国侍も同じだった。

 信忠は一門や土豪・国侍から離反されることによって、すっかり孤立してしまった。しかし、信忠の悪い評価は二次史料によるものなので、史実か否か検討を要する。

 一部の家臣は、無能な信忠を廃して、代わりに弟の信定を擁立しようと画策した。ところが、このことが信定派と信忠派の新たな家中の対立を生み出し、結局、信忠は自ら身を引く決断をした。

 その結果、信忠は家督を大永3年(1523)に子の清康に譲り、自らは大浜(愛知県碧南市)に隠退した。亡くなったのは、翌年7月のことである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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