【先取り「どうする家康」】松平家を弱体させた、松平信忠の大失態とは
![](https://newsatcl-pctr.c.yimg.jp/t/iwiz-yn/rpr/watanabedaimon/00330883/title-1672385384723.jpeg?exp=10800)
1月8日からNHK大河ドラマ「どうする家康」がはじまる。今回はドラマの内容を先取りすべく、松平家を弱体させた、松平信忠の大失態を取り上げることにしたい。
松平長忠の没後、家督を継いだのが信忠である。信忠が誕生したのは、延徳2年(1490)のことである。長忠が存命中の文亀3年(1503)、信忠は連署して文書を称名寺(愛知県碧南市)宛に発給した。この頃には長忠が引退し、家督を譲ったと考えられる。
永正3年(1506)、今川氏親が三河侵攻を開始した。その2年後には、伊勢宗瑞(北条早雲)が西三河に侵攻したが、信忠は撃退することに成功した(永正三河の乱)。しかし、信忠の戦いぶりは、決して史料上で確認できるわけではない。
永正6年(1509)には、信忠が単独で称名寺に地子(地税)を寄進したことが確認できる。ただし、まだ長忠が存命だったので、その後見を受けながら、諸権限を行使していたのかもしれない。
とはいえ、信忠は松平氏歴代のなかでも非常に評判が悪い。信忠には慈悲の心がなく、政治の面でも劣っていたという。『三河物語』によると、「武勇・情愛・慈悲」が備わっておらず、家臣や民の中には慕う者がいなかったとまで伝わっている。
信忠は酒食に溺れて駄目になったと伝わるが、一説によると、それは病気によるものだったともいわれている。それゆえ松平氏一門は信忠から心が離れてしまい、それは土豪や国侍も同じだった。
信忠は一門や土豪・国侍から離反されることによって、すっかり孤立してしまった。しかし、信忠の悪い評価は二次史料によるものなので、史実か否か検討を要する。
一部の家臣は、無能な信忠を廃して、代わりに弟の信定を擁立しようと画策した。ところが、このことが信定派と信忠派の新たな家中の対立を生み出し、結局、信忠は自ら身を引く決断をした。
その結果、信忠は家督を大永3年(1523)に子の清康に譲り、自らは大浜(愛知県碧南市)に隠退した。亡くなったのは、翌年7月のことである。