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あまりに無念すぎる! 騙されて風呂場で殺された3人の武将

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
(写真:アフロ)

 あまりに残暑が厳しく、風呂ではなくシャワーで済ませる人は多いはずである。実は、騙されて風呂に入るよう勧められ、殺された3人の武将がいたので紹介することにしよう。

1.源義朝(1123~1160)

 平治元年(1160)12月、義朝は平清盛に戦いを挑んで敗北した(平治の乱)。義朝は再起を期すべく、東国へ落ち延びようとした。

 しかし、子の朝長は追討軍との交戦で深手を負い、途中で落命した。もう1人の子の頼朝は、逃亡中に義朝と別れ別れになってしまったのである。

 それでも義朝はなんとか尾張国知多郡野間(愛知県知多郡美浜町)に到着すると、家人の長田忠致・景致父子を頼った。すでに疲労困憊だったことは、いうまでもない。

 義朝は疲れを癒やすべく風呂を勧められたが、それは長田父子の罠だった。長田父子は恩賞欲しさに、入浴中の義朝を討ち取ったのである。のちに頼朝は長田父子を討ち、父の仇を取った。

2.源頼家(1182~1204)

 建仁3年(1203)7月、2代将軍の頼家が重篤となると、北条時政はかねて関係が悪化していた比企能員ら比企一族を討伐した(比企の乱)。

 比企の乱の後、頼家は奇跡的に回復したが、後ろ盾となる能員ら比企一族は滅亡し、我が子の一幡が焼死したことを知った。用済みとなった頼家は、同年9月29日に伊豆の修禅寺に幽閉されたのである。

 元久元年(1204)7月18日、頼家が急死した(『吾妻鏡』)。慈円の『愚管抄』によると、頼家の首に緒(ひも)を括りつけ、「ふぐり(陰嚢)」を切り取って殺害したという。

 風呂で入浴中に殺されたと書くのは、『保暦間記』である。北条の手の者が殺害したのはたしかと思えるが、死因は諸説あって判然としない。

3.太田道灌(1432~1486)

 道灌は扇谷上杉定正の家宰として活躍したが、やがてその実力を恐れた定正に煙たがられるようになった。当時は下剋上の風潮があったので、無理からぬところである。

 文明18年(1486)7月26日、道灌は定正の糟屋館(神奈川県伊勢原市)に招かれたが、何ら警戒することもなく応じた。そして、風呂に入るよう勧められたのである。これが定正の作戦だった。

 道灌は風呂から上がると、待ち伏せしていた曽我兵庫に襲撃され、抵抗することもなく落命した。そもそも風呂に入るときは丸腰なので、応戦できなかったに違いない。

 その際、道灌は「当方滅亡」と叫んだという。「当方滅亡」とは、道灌が死んでしまうと、扇谷上杉家は滅亡するだろうという予言である。果たして、道灌が本当に「当方滅亡」と叫んだのか否かは不明である。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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