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【深掘り「どうする家康」】徳川家康と織田信長が結んだ「清須同盟」はウソだった

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
徳川家康(提供:アフロ)

 NHK大河ドラマ「どうする家康」では、桶狭間合戦後が描かれていた。今回は徳川家康と織田信長が結んだ「清須同盟」について、詳しく解説することにしたい。

 永禄3年(1560)の桶狭間合戦後、松平元康(のちの徳川家康)は自立化を目論んで今川方から離反し、西三河の平定に取り組んだ。これまで今川氏から苦汁を嘗めさせられていたので、一気に巻き返しを図ったのである。

 同時に織田信長とも抗争を繰り広げ、刈谷(愛知県刈谷市)、小河(同東浦町)、挙母、梅ヶ坪(以上、同豊田市)など、三河と尾張の国境付近に軍を進めていた。

 永禄4年(1561)頃、元康と信長は和睦を結ぶことになった。両者の和睦の内容は、①領域画定、②戦線協定(ただし自力次第)、③攻守同盟の3点であると指摘されている。

 同じ頃、信長は美濃の斎藤氏と戦争をしていた。信長にとって、美濃の斎藤氏に加え、三河の松平元康と抗争を繰り広げることは得策でない。元康としても戦争を避け、信長と同盟を結んだほうが良いのは同じである。

 ただし、両者の和睦は先の3点で成っていたといわれてきたが、根拠となった史料の性質が悪く、現在では①の領域画定だけが締結されていたのではないかと指摘されている。

 いずれにしても注意すべきは、元康がこの段階では、まだ信長の配下に収まっていないということである。

 通説によると、これまで両者の同盟は永禄5年(1562)1月に元康が清須城(愛知県清須市)の信長のもとを訪れ、会見後に締結したとされてきた。いわゆる清須同盟である。しかし、清須同盟については疑義が提示されている。

 そもそも元康は東三河で今川氏と交戦しており、城を空けて清須城を訪問する余裕はなかったと指摘されている。また、それぞれの当主が顔を突き合わせ、同盟を結ぶ例はこの時期にあまり見られない。

 加えて、清須同盟の一次史料がないのは仕方がないとしても、二次史料のなかで比較的信頼性が高い『信長公記』、『松平記』、『三河物語』などにも、まったく記述がない。

 これまで、両者の間で清須同盟が結ばれたとされきたが、最近の研究では「なかった」と否定されている。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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