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あの人はどこへ!歴史上からなぜか消えてしまった戦国武将。その後の動向がわかった3人

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
兵庫県伊丹市の有岡城跡(荒木村重の居城)。(写真:イメージマート)

 テレビを観ていると、昔懐かしい芸能人が元気な姿をあらわし、安堵することがある。戦国時代において、敗北などで姿を消した戦国武将は決して珍しくないが、そのうち動向がある程度わかる3人を紹介しよう。

◎宇都宮国綱(1568~1608)

 天正18年(1590)に小田原征伐が勃発すると、宇都宮国綱は豊臣秀吉に従って出陣し、所領を安堵された。ところが、慶長2年(1597)、子のなかった国綱は養子を迎えようとしたがトラブルが生じ、突如として改易された(改易の理由については諸説あり)。

 改易された国綱は、備前の宇喜多秀家に預けられた。文禄の役がはじまると、秀吉が国綱に出陣を求め、活躍次第では再興を許すとの言質を得た。国綱は軍功を挙げたが、慶長3年(1598)に秀吉が病没したので、再興は実現しなかった。

 2年後の関ヶ原合戦において、国綱は東軍に属したが、2人の弟が西軍に与したので、再興は叶わなかった。その後、諸国を放浪した国綱は、慶長12年(1607)に江戸浅草(東京都台東区)の石浜で病没したと伝わっている。

◎荒木村重(1535~1586)

 織田信長の配下にあった荒木村重は、天正6年(1578)に突如として反旗を翻した(有岡城の戦い)。しかし、戦いは劣勢に追い込まれ、天正8年(1580)には花隈城(兵庫県神戸市)を捨て、毛利氏領国の尾道(広島県尾道市)に逃亡したといわれている。

 その2年後に織田信長が本能寺の変で横死すると、村重は堺(大阪府堺市)へ移り、豊臣秀吉の茶の宗匠として仕えるようになった。かつて、村重は千利休ら茶人から学んでいたので、そのスキルを活かしたのだ。「道薫」と名乗ったのも同じ頃である。村重が堺で亡くなったのは、天正14年(1586)のことだった。

◎足利義昭(1537~1597)

 足利義昭は織田信長と協調関係にあったものの、天正元年(1573)に関係が破綻した。義昭は信長との戦いに敗れ、毛利氏を頼った。天正10年(1582)の本能寺の変で信長は横死するが、義昭の上洛と室町幕府再興は実現せず、最終的に主導権を握ったのは、羽柴(豊臣)秀吉だった。

 天正15年(1587)、ようやく義昭は上洛して秀吉と和解し、征夷大将軍職を返上した。以後、義昭は出家して「昌山道休」と号し、秀吉の御伽衆に加えられた。義昭が大坂で病没したのは、慶長2年(1597)のことである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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