徳川家康は、本当に寡黙な苦労人だったのか
今年の大河ドラマ「どうする家康」は、新しい徳川家康の姿を打ち出したことで、非常に話題となった。その一方で、家康には寡黙な苦労人だったというイメージが付きまとうが、実際はどうだったのか考えることにしよう。
天下人と言えば、織田信長、豊臣秀吉の人気が高い。信長は将軍の足利義昭を京都から追放すると、以後は戦いに次ぐ戦いで、諸大名と天下統一戦争を繰り広げた。その志半ばにして、明智光秀に本能寺で討たれたというのも劇的である。
また、いささか誤解はあるかもしれないが、信長の苛烈だった性格も多くの人を魅了した。おそらく戦国大名の中で、ナンバーワンの人気を誇るはずである。
もう1人の秀吉は、一介の農民から身を起こし、天下人になったこともあり、多くの人に勇気を与えた感がある。しかも、テレビドラマなどの秀吉は明るく快活で、お茶の間の人気者だった。
秀吉は大変なアイデアマンで、太閤検地、刀狩りなどの政策を次々と打ち出した。しかし、近年になって、秀吉のブラックな側面が明らかにされ、最近のテレビドラマでは、そうした姿が反映されているようだ。
幼い頃の家康は、父の松平広忠が早く亡くなったので、最初は織田氏、のちに今川氏のもとで人質生活を送った。当時の松平氏は衰退傾向にあったので、強力な大名に頼らざるを得なかったからである。
とはいえ、家康の人質時代の生活は、たしかな史料に書かれているわけでもなく、ほとんどわからない。人質なので苦労はあったと思うが、今川氏が粗雑な扱いをしたとは思えない。家康が元服したとき、今川義元が自分の「元」の字を与え、「元信」と名乗らせたのはその証左となろう。
家康の生涯が過大に評価されたのは江戸時代のことで、「松平・徳川中心史観」の影響が大きい。「松平・徳川中心史観」とは、家康が慶長8年(1603)に征夷大将軍に就任したことから遡及して、それ以前の松平・徳川両氏の存在を特別視する歴史観である。これにより、家康の姿を否定的に描くことは、許されなくなった。
家康の生涯を語るうえで、大きな影響を与えたのが山岡荘八の小説『徳川家康』である。山岡は家康が幼い頃から我慢を重ね、逆境や困難にも負けることなく、先見の明により天下人になり、泰平の世を願う人物として描いた。この影響は計り知れないほど大きく、のちの我慢強い、苦労人の家康の姿が定着したのである。
また、家康は「人の一生は重荷を負て遠き道をゆくがごとし、いそぐべからず。不自由を常とおもへば不足なし、こころに望おこらば困窮したる時を思ひ出すべし。堪忍は無事長久の基、いかりは敵とおもへ。勝事ばかり知りて、まくる事をしらざれば、害其身にいたる。おのれを責て人をせむるな。及ばざるは過たるよりまされり」という遺訓を残したというが、これは偽作である。
明治になって、幕臣の池田松之介が『人のいましめ』(徳川光圀の遺訓)を典拠として、偽作したものだ。高橋泥舟らがこの偽作を日光東照宮をはじめ、各地の東照宮に収めて人々の間に広まった。つまり、家康が特別に我慢強かった、苦労人だったというのは、もう少し検討が必要だろう。
主要参考文献
渡邊大門『誤解だらけの徳川家康』(幻冬舎新書、2022年)